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短編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2025

先に呼んだのは誰か nw+

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あれは、湿り気を帯びた夜だった。

雨は降っていないのに、空気だけが濡れていた。息を吸うたび、肺の奥で水が鳴るような錯覚があった。

友人の田代と、部屋で飲み直そうという話になり、コンビニ袋をぶら下げてマンションへ戻る途中だった。缶ビールの冷たさが掌に張りつき、妙に現実感が強かった。

「なあ」

田代が言った。

「今このタイミングでさ、もし誰かがお前の部屋の前に立ってたらどうする」

唐突だったが、こいつは酔うと確率の話をしたがる。

「で、その誰かが、お前が留守だと思って帰ろうとした瞬間に、俺らと鉢合わせるとする」

「ほぼゼロだな」

「ゼロじゃない」

そのやりとりを笑い飛ばした直後だった。

角を曲がった瞬間、前方から自転車が突っ込んできた。避けきれず肩がかすめる。謝罪もなく、影だけが通り過ぎた。

背中に汗が滲んだのは暑さのせいではない。

マンションの前で、田代が立ち止まった。

「今、呼ばれなかったか」

「何を」

「お前の名前」

聞こえなかった、と言い切れなかった。確かに、空気が一瞬だけ振動した気がした。

エレベーターの鏡に映る自分たちの顔は、どちらも笑っていなかった。

部屋に入ると、悪ノリで心霊あるあるを並べ立てた。電話が鳴るタイミング、名前を呼ぶ声、いないはずの誰か。

「じゃあ今から一時間以内に電話が鳴ったら、本物な」

言い終わる前に鳴った。

受話器の向こうは彼女だった。

「さっき、マンションの前にいた?」

いないと答えると、沈黙が落ちた。

「変な声がした」

低く、引き延ばすような声。

「あーーーーーーー、って」

霊的な感じじゃなかった、と彼女は言った。ただの声。ただの音。でも、確かにそこにあった、と。

その日はそれで終わった。

十日後、彼女から旅行先で電話があった。

「夢を見た」

夢の中で、僕と田代が歩いている。彼女は嫉妬して、自転車でぶつかりにいく。追い抜いて、マンションの前に先回りする。そして、名前を呼ぶ。

夢の中で、彼女は確かに言ったという。

「あーーーーーーー」

あの夜の自転車。あの声。あの電話。

順番はどちらが先だったのか。

彼女は夢を見たから話したのか。それとも、話を聞いたから夢を見たのか。

僕たちは、自転車に当てられた。声を聞いた。電話を受けた。

では、誰が最初にそれを思いついた。

田代が言った。

「確率はゼロじゃない」

あのとき、あいつは何を想定していた。

最近、気づいたことがある。

あの夜の話を、僕は何度も人にしている。

そのたびに、相手は同じところで息を止める。

自転車。声。電話。

そして、きまって聞かれる。

「本当に、彼女だったのか」

その質問が出た瞬間、空気がまた湿る。

誰かが想像した瞬間に、その想像は現実に触れるのかもしれない。

だとしたら、今これを読んでいるあなたは、どの場面を一番強く思い浮かべただろうか。

自転車か。

マンションの前か。

それとも、名前を呼ぶ声か。

もし今、どこかで誰かが、低く長く、引き延ばすように声を出していたとしても。

それが誰の声なのか、もう確かめる方法はない。

ただ一つ確かなのは、あの夜、僕たちは確率の話をしたということだけだ。

そして、ゼロではなかった。

[出典:194 :ちょっと変:04/02/24 00:31]

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