あれは、妙に湿った夜だった。
雨が降っていたわけじゃない。ただ空気が重たくて、吸い込むたびに肺の奥で水音が鳴るような、そんな感覚だった。
友人の田代と、僕のマンションで飲もうという話になって、酒のつまみを買いに外へ出た帰り道。コンビニの袋が手にくい込んで、冷たい缶の表面に汗がにじんでいた。
「なあ、お前考えたことあるか? 俺らが今、お前の部屋に戻ってるタイミングでさ」
田代が急に口を開いた。「ちょうど誰かが、お前の部屋の前にいるとしたら、って」
相変わらず唐突だったけど、酒が入るとアイツはときどき、数学者みたいなことを言い出す。確率とか、偶然とか、そんな話が好きだった。
「で、その誰かが俺が留守だとわかって帰ろうとしてるとする」
「うん」
「で、その帰ろうとした奴と、俺たちが鉢合わせる確率……どれくらいだと思う?」
笑った。あまりに突飛すぎて。
「限りなくゼロに近いな」
田代も笑った。二人で笑いながら角を曲がった、その瞬間だった。
前方から突っ込んできた自転車。反射的に避けたけど、肩にかすかに当たって痛みが走った。
「危ないなあ……」
「ごめんなさいくらい言えっての」
自転車は止まりもせず、後ろ姿のまま暗がりに消えていった。あの時、背中に汗がにじんだのは暑さのせいじゃなかったと思う。
マンションの前に着いた時、田代が急に立ち止まった。
「どうした?」と訊くと、顔をしかめて前を指差した。
「お前、今……誰か、名前呼んだの聞こえなかった?」
一瞬、空気が凍ったような気がした。僕もなぜか、同じタイミングで肌が粟立った。
けれど「気のせいだろ」と笑い飛ばすことにした。というより、そうするしかなかった。
エレベーターの中でも話は続いた。
「幽霊って、名前呼ぶって言うじゃん」
「やめろよ」
「ほら、そういう話、よくあるじゃん。いないはずの女が呼ぶ、とかさ」
「お前、わざと怖がらせてんだろ」
部屋に戻ると、スルメとマヨネーズで飲み直しながら、話はどんどん悪ノリになっていった。
心霊ドラマあるあるとか、電話が鳴るタイミングの話とか。
「今から一時間以内に、誰かから電話がかかってきたら、本物のホラーってことにしようぜ」
田代がそう言って、部屋の電話を指差した瞬間だった。
……鳴った。
本当に鳴った。まるで台本でもあるかのように。
受話器を取ると、彼女の声だった。
「さっき……あんたのマンションに来た?」
「え? 来てないけど」
それだけ言うと、彼女はすぐに電話を切った。しばらくして部屋に来て、少し顔色が悪かった。
マンションの前で、誰かの声を聴いたという。
低く、だるそうに「あーーーーーーー」と二秒ほど引き延ばすような声だったと。
霊とかそういう感じじゃなかった、と彼女は言った。
「本当に、ただの声。怖くはないけど……変だった」
その日はそれだけで終わった。
でも、妙な感覚は残ったままだった。
それから十日ほど経ったある日、旅行先の彼女から電話があった。
「夢を見たの」
唐突な切り出しだった。
夢の中で、僕と田代が仲良く歩いていた。
それを見て、少し嫉妬した彼女が、自転車に乗って僕たちにぶつかりにいく。
そして、僕の部屋の前に先回りして、名前を呼ぶ。
夢の中で彼女が言ったその言葉を聞いたとき、背筋がひやりとした。
あの夜、僕たちをかすめた自転車。
マンションの前で聞こえた声。
そして……田代があのとき電話で返してきた言葉。
『あーーーーーーー』
冗談だと思ってた。
でも、それが本当に「誰かの声」だったのだとしたら?
夢の中で、彼女が演じた通りの行動が、現実で僕たちの周囲に影を落としていたとしたら?
偶然?
数学的可能性?
でも、どう考えても確率は低すぎる。
それとも、可能性は確率じゃなく、感情の中に潜んでいるものなんだろうか。
あの夜の自転車も、あの声も、全部、彼女の嫉妬が現実にねじ込んだ……そんなことが、あるとでも?
僕はもう田代に聞く気になれなかった。
「あーーーーーーー」
あの一言が、ただの冗談だったと思い込んでいるうちが、まだ安全な気がする。
[出典:194 :ちょっと変:04/02/24 00:31]