あれは、湿り気を帯びた夜だった。
雨は降っていないのに、空気だけが濡れていた。息を吸うたび、肺の奥で水が鳴るような錯覚があった。
友人の田代と、部屋で飲み直そうという話になり、コンビニ袋をぶら下げてマンションへ戻る途中だった。缶ビールの冷たさが掌に張りつき、妙に現実感が強かった。
「なあ」
田代が言った。
「今このタイミングでさ、もし誰かがお前の部屋の前に立ってたらどうする」
唐突だったが、こいつは酔うと確率の話をしたがる。
「で、その誰かが、お前が留守だと思って帰ろうとした瞬間に、俺らと鉢合わせるとする」
「ほぼゼロだな」
「ゼロじゃない」
そのやりとりを笑い飛ばした直後だった。
角を曲がった瞬間、前方から自転車が突っ込んできた。避けきれず肩がかすめる。謝罪もなく、影だけが通り過ぎた。
背中に汗が滲んだのは暑さのせいではない。
マンションの前で、田代が立ち止まった。
「今、呼ばれなかったか」
「何を」
「お前の名前」
聞こえなかった、と言い切れなかった。確かに、空気が一瞬だけ振動した気がした。
エレベーターの鏡に映る自分たちの顔は、どちらも笑っていなかった。
部屋に入ると、悪ノリで心霊あるあるを並べ立てた。電話が鳴るタイミング、名前を呼ぶ声、いないはずの誰か。
「じゃあ今から一時間以内に電話が鳴ったら、本物な」
言い終わる前に鳴った。
受話器の向こうは彼女だった。
「さっき、マンションの前にいた?」
いないと答えると、沈黙が落ちた。
「変な声がした」
低く、引き延ばすような声。
「あーーーーーーー、って」
霊的な感じじゃなかった、と彼女は言った。ただの声。ただの音。でも、確かにそこにあった、と。
その日はそれで終わった。
十日後、彼女から旅行先で電話があった。
「夢を見た」
夢の中で、僕と田代が歩いている。彼女は嫉妬して、自転車でぶつかりにいく。追い抜いて、マンションの前に先回りする。そして、名前を呼ぶ。
夢の中で、彼女は確かに言ったという。
「あーーーーーーー」
あの夜の自転車。あの声。あの電話。
順番はどちらが先だったのか。
彼女は夢を見たから話したのか。それとも、話を聞いたから夢を見たのか。
僕たちは、自転車に当てられた。声を聞いた。電話を受けた。
では、誰が最初にそれを思いついた。
田代が言った。
「確率はゼロじゃない」
あのとき、あいつは何を想定していた。
最近、気づいたことがある。
あの夜の話を、僕は何度も人にしている。
そのたびに、相手は同じところで息を止める。
自転車。声。電話。
そして、きまって聞かれる。
「本当に、彼女だったのか」
その質問が出た瞬間、空気がまた湿る。
誰かが想像した瞬間に、その想像は現実に触れるのかもしれない。
だとしたら、今これを読んでいるあなたは、どの場面を一番強く思い浮かべただろうか。
自転車か。
マンションの前か。
それとも、名前を呼ぶ声か。
もし今、どこかで誰かが、低く長く、引き延ばすように声を出していたとしても。
それが誰の声なのか、もう確かめる方法はない。
ただ一つ確かなのは、あの夜、僕たちは確率の話をしたということだけだ。
そして、ゼロではなかった。
[出典:194 :ちょっと変:04/02/24 00:31]