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中編 r+ ほんのり怖い話

ケン君の部屋 r+3,570-4,023

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この話を思い出すたびに、どうにも体の奥が冷える。

まるで自分の骨の髄にまで、あの夜の寒気がまだ残っているように。伝聞で聞いたことをここに書きつけるが、語った本人は終始うつむき加減で、途中から声が震えていた。話の筋はたしかに荒唐無稽に思えるのに、なぜか否応なく真実味を帯びて聞こえてしまうのだ。

大学生だったAは、生活に困っていた。仕送りは雀の涙、アルバイトは時給が安い。そんな折に目をつけたのが家庭教師の仕事だった。自作のビラを貼った数日後、一人の中年女性から電話が入る。「息子がいるので毎日来て欲しい」――それは夢のように聞こえたのだという。

指定された家は、周囲から取り残されたように一軒だけぽつりと建っていた。古びて苔むした塀、窓は煤け、全体に人の気配を拒むような陰鬱さが漂っていた。チャイムを押すと、出てきた女の異様な風体に息をのむ。脂で固まった髪、黒ずんだ眼窩、歪んだ笑み。迎え入れられるときの「ニタリ」とした口元が、Aの記憶に焼きついたままだという。

案内された子供部屋の机に向かって座っていたのは、子供ではなく布の人形だった。顔にあるのは三つの丸だけ。無機質で、表情など存在しない。ただの布切れにすぎなかった。思わず「人形ですよね」と口にした瞬間、女の形相が豹変する。「この子はうちのケンよ!」と怒鳴り、唾を飛ばすほどの剣幕だった。Aは慌てて「ケン君」と呼びかけながら授業を始める。空気の抜けた風船のように、声だけが虚しく響く部屋。背後では女が薄ら笑いを浮かべ、じっと監視していた。

授業が終わったあと、食事を強要された。汚れた鍋で煮込んだカレーを食べている間、Aは吐き気と恐怖を押し殺すのに必死だった。そして最後に「泊まっていきなさい」と迫られる。拒めば烈火のごとく怒鳴りつけられる。「ケン君が寂しがる」と言い張るその声は、母親というより牢番に近かった。

夜半、脱出を試みたAは、玄関に向かう途中で気づく。ダイニングの暗がりに、女が正座してこちらを凝視していたのだ。にたりと笑みを浮かべ、冷たい声で言い放つ。「まさか帰るなんて言わないわよね?」――理性の糸がぷつりと切れ、Aは咄嗟に階段を駆け上がった。

二階の部屋に飛び込み、灯りをつけると、そこは人形の密集地獄だった。無数のガラスの眼、縫い付けられた瞳が一斉にAを射抜く。奥から聞こえたのは甲高い哄笑。「ヒャッヒャッヒャッヒャッ!!」という異様な声に目を凝らすと、巨大な頭と飛び出した眼球を持つ存在が、畳をずるずると這いながら近づいてくる。

その瞬間、Aは本能で窓へ突進した。二階から飛び降り、骨が砕けるような痛みに襲われながらも走り去った。翌日、病院で左足の骨折が判明した。

そして後日、あの家を探してもどこにも存在しなかったという。住所を確かめに行った知人たちも、そこには更地が広がっているばかりだった。あの夜の女も、ケン君と呼ばれた布切れの人形も、まるで最初からこの世に存在しなかったかのように。

以来、Aは二度と家庭教師の仕事をしようとはしなかった。今でも「ケン君」という言葉を聞くだけで体が震えるのだと打ち明けていた。


さて、あの「ケン君」とは一体何だったのだろうか。母親の狂気が生み出した幻影なのか、それとももっと別の――人形の背後に潜んでいた得体の知れぬ存在の仕業か。語り手の声を思い出すと、どちらにしても容易に笑い飛ばす気にはなれない。

(了)

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