これは、とある大学生(仮にAとしよう)から聞いた話だ。
Aは当時、地方の大学に通い、質素なアパートで一人暮らしをしていた。親からの仕送りは少なく、日々の食費にも事欠く有様だった。アルバイトもしていたが、家計の足しになるほどのものはなく、もっと収入のよい仕事を探していた。その時、ふとしたきっかけで「家庭教師」の求人が良いと知り、ふと閃いた。家庭教師は時給が良いし、スーツを着ることもない。そこでAは、自作のビラを作り、近所の掲示板に貼って回ることにした。
内容は「中高生向けの家庭教師、一時間三千円。英語と国語指導可」とあり、連絡先も明記したものだった。しばらくして、一人の中年女性から連絡が来た。彼女は「息子がいるんです。毎日来て勉強を教えてほしい」と依頼してきた。一日に四時間も通えば、生活は一気に楽になる。一瞬でも迷ったことを後悔したと、Aは振り返る。
翌日、指定された住所へ向かうと、その家は古びており、まわりの住宅から離れてぽつんと建っていた。外観の薄暗さに気圧されつつも、Aは仕事のためと割り切り、意を決してチャイムを鳴らした。現れたのは、電話で聞いた通りの中年の女性。だが、その様子にAは内心ぞっとした。女の髪は脂じみて乱れ、眼窩はどす黒く凹んでいる。ニタリと笑ってAを招き入れるその表情は、どこか狂気がこもっているようだった。
案内された部屋は、いかにも子供部屋といった雰囲気で、ぬいぐるみやおもちゃが所狭しと並んでいた。部屋の奥の勉強机に向かう影に声をかけるが、返事はない。近寄ってみると、それは人形だった。布製の、顔には丸が三つあるだけの無機質なものだ。Aは思わず「人形ですよね…?」と尋ねてしまう。これがまずかった。
「はぁ!?この子はうちのケンよ!何言ってるの!」と女性は怒声を上げた。その変貌ぶりに、Aは心底恐怖した。冷や汗が噴き出し、無我夢中でその場をやり過ごそうと努めた。「そ、そうですね…ケン君、お勉強頑張ろうね!」そう言ってなんとか彼女を落ち着かせると、机に向かい、ひたすら一人で「ケン君」に話しかけ続けた。英語のbe動詞や連用形の例文を教える声は、空虚に部屋の中に響くだけだった。女性は、その様子を薄ら笑いを浮かべながら後ろから見つめていた。
なんとか四時間が経ち、Aは帰り支度を始めた。「もう遅いしご飯食べていきなさい」と彼女が言う。拒否したが、再び「食べていきなさいよ!!」と一喝され、断ることができなかった。汚れた鍋で煮込まれたカレーライスは、正直不味くはなかったが、味よりもその場の異様な雰囲気でAは気が狂いそうだった。食べ終わると、次に「今日は泊まっていきなさい」と言う。
「そんな、もう帰らなきゃ」と断るAに、彼女はさらに強い口調で迫ってきた。「ケン君が寂しがるわ!」と大声を張り上げる彼女の様子に、もう反論できる余地はなかった。Aはしぶしぶ了承する振りをし、脱出の機会をうかがうことにした。ケン君の部屋には簡素な布団が敷かれ、Aはその上で横になった。女性は「トイレはダイニングの隣だから、二階には行かないでね」と意味ありげに言い残して部屋を去った。
深夜、Aは思わず眠り込んでしまい、目を覚ましたのは一時過ぎだった。隙を見て逃げようと静かに立ち上がり、鞄を手にして忍び足で玄関へ向かった。途中、ダイニングの隙間から誰かの視線を感じて振り向くと、女が不気味な笑みを浮かべて正座してこちらを見つめていた。「まさか帰るなんて言わないわよね?」その声は低く、冷たく、張り詰めたものだった。Aの中で何かがぷつりと切れた。
叫び声を上げて反対方向へ走り出す。彼の目に階段が映り、一気に駆け上がった。二階の部屋へ飛び込み、明かりをつける。電灯が点くと、目に飛び込んできたのは大小さまざまなぬいぐるみと人形が所狭しと置かれた光景だった。その無数の眼が一斉にAを見つめているように感じ、息が詰まる。すると、部屋の奥から異様な声が響いた。
「ヒャッヒャッヒャッヒャッ!!」
その声に導かれるように、奥を見ると、何かが動いていた。異形の存在、異様に大きな頭と飛び出した目玉を持つ、それは人間なのか何なのか分からないものが、Aの方へにじり寄ってきた。その生き物と目が合った瞬間、Aは本能的にそこから逃れようと窓へ駆け寄った。窓を開け、躊躇することなく二階から飛び降りた。
地面に叩きつけられ、激痛が体を貫いたが、それ以上に「ここから逃げなければ」という恐怖が勝った。何とか立ち上がり、道を駆け抜け、自宅へと戻った。翌日、耐えきれない足の痛みで病院に行くと、左足は骨折していた。
後日、Aは周囲に相談したものの、あの家の場所や、依頼主の姿はどこにも見つからなかったと言う。誰もその家を見たことがないと口を揃えたという。そしてAは、二度と家庭教師の仕事を引き受けることはなくなった。