これは、実際に自分が体験したことだ。
今でも鮮明に思い出せるが、同時に思い出したくない夜でもある。
鶯谷という街をご存じだろうか。山手線の駅のひとつだが、観光客で賑わうわけでもなく、ビジネスマンで混雑するわけでもない。人の流れから外れて、取り残されたように淀んだ空気を漂わせている。江戸時代から続く吉原の入口としての役割を担い続け、今でもラブホテルと風俗店が絡みつくように並んでいる。
夜の鶯谷は特に奇妙だ。酔客でも観光客でもない、風俗嬢を呼ぶためだけにホテルへ吸い込まれていく男達の背中。その姿がまるで祭壇に進む信者のように見える。
その晩、私は後輩と共に鶯谷で遊ぶことになった。軽い気持ちだった。鶯谷のホテルには「ホテトル」と呼ばれるシステムがある。部屋に置かれた冊子から気に入った店に電話をし、女の子を呼ぶ。単純な仕組みだ。しかし、この街では風俗嬢が殺害される事件が何度も起きていた。女達の間で忌避される場所であり、そこに流れてくるのは行き場を失った者ばかりだという噂を、私は思い出しながら歩いていた。
安いホテルを探して、暗がりの細道を彷徨った。ようやく見つけた小さなホテルのフロントには、無表情の初老の男が腰を下ろしていた。
声をかけると、彼は私を一瞥して「うちはさ、君たちみたいな若い人が好むホテルじゃないからねえ」と断るような口調で言った。
「構いませんよ。ただ休みたいだけですから」
そう返すと、彼はしぶしぶ鍵を二つ手渡してきた。嫌々、という態度が見え見えだった。客を迎えるのが嫌なら何故この場に座っているのか、と腹の中で毒づきながら部屋へ向かった。
しかし、部屋に入ってからが問題だった。冊子を広げても気に入る店がない。後輩も同じ様子だった。仕方ない。今さらキャンセルもできない。
「じゃあ、少し寝て帰ろう」
私たちはそう決め、布団に潜り込んだ。
その時、後輩が落ち着かない様子で言った。
「あの……ソファーで寝るんで、一緒の部屋でもいいですか」
私は一瞬、言葉の意味を計りかねたが、すぐに思い当たった。彼は自称・霊感持ちで、場所の「嫌な気配」をよく口にする人間だった。
「やっぱり、この部屋……気持ち悪いんですよ」
彼は早口で言い、荷物を抱えて私の部屋に移動してきた。その姿は幽霊を怖がる小学生そのもので、私は内心少し笑ってしまった。
笑っていたのは、その瞬間だけだった。
眠りに落ちた途端、私は奇妙な夢を見たのだ。
部屋の景色は現実と寸分違わなかった。赤い絨毯、場違いな安っぽい風景画、そして白いソファーに横たわる後輩。
ただひとつだけ違う。閉めたはずの扉が、わずかに開いていた。隙間から廊下の裸電球が漏れ、影の帯が床を斜めに走っている。
夢の中の私は、じっとその光景を見つめていた。カメラの映像を強制的に見せられているように、動くことも、視線を逸らすこともできない。
「夢だな」
ふいに自覚した瞬間、目が覚めた。
現実の部屋は、夢の通りだった。扉はきちんと閉まっている。しかし、胸に残るざらつきが消えない。夢と現実の境界がどこか曖昧に溶けているようで、頭がぼんやりした。
その時だった。
ソファーで寝ていた後輩が、突然胸をのけ反らせた。両足を海老のようにばたつかせ、苦悶の声を喉から絞り出している。
「ギャアアアアアッ!!!」
断末魔のような叫びが部屋を震わせた。耳を切り裂くような悲鳴に、私は凍りついた。体が動かない。目の前で何か恐ろしいことが起きている。頭では理解できても、体は逃げることを拒んでいた。
我に返り、必死に後輩を揺り動かすと、彼はがくりと力を失った。荒い息を繰り返しながら、やがて少しずつ落ち着きを取り戻していく。
青ざめた顔で、彼は途切れ途切れに語った。
「俺……夢を見てたんです。同じ部屋で……扉が少し開いてて……」
私は心臓が冷たく握りつぶされるのを感じた。彼もまた、同じ夢を見ていたのだ。
「その扉から……女が入ってきました。黒い髪で……目がなかった。ゆっくり、俺に近づいてきて……顔を覗き込んで、鼻を……鼻を押し当ててきたんです。匂いを嗅がれてました」
その言葉を聞いた瞬間、背筋を氷柱が貫いた。私が見たのは扉の隙間まで。彼はその先を見せられた。夢が繋がっていたのだ。
これ以上ここに居るのは危険だと直感した。私たちは荷物をまとめ、夜明け前にチェックアウトした。
フロントの男に事情を話すと、彼は気の抜けたような声で「まあ、うちも五十年近くやってるからねえ」と答えた。何を意味するのか、私は深く追求できなかった。背後に膨大な年月と、数え切れない女の影を感じてしまったからだ。
それからが問題だった。
後輩はあの夜以来、明らかに変わった。自分の匂いを執拗に気にするようになり、何度もシャワーを浴び、衣服を取り替えた。恋人が心配して心療内科に連れて行ったが、診断は「自臭症」――自分の匂いが異常に気になる精神症状だと医者は言った。
だが私は納得できなかった。あの夜、女が彼の匂いを嗅いでいたのだ。
女は今も、犯人の匂いを探し続けているのではないか。自分を殺した相手を見つけ出すために。
そして、あの夢の中で女の鼻が触れた瞬間から、後輩は“その匂いの持ち主”に選ばれてしまったのではないか。
私は今もその疑念を捨てきれずにいる。
鶯谷のホテル街を通りかかるたび、赤い絨毯と半開きの扉を思い出し、背筋が冷たくなる。
(了)