あれは、よく晴れた午後だった。
陽が真上から地面を叩きつけるような、何の変哲もない一日だった。
足利の駅を降りて、渡良瀬川までの道を歩いていた。
ちょうど、事件から十七年が経った日だった。いや、「事件」とひとことで括るには、あまりにも多すぎた。失われたものも、奪われたものも。
わたしは……たぶん、世間では「元犯人」と呼ばれていた。正確には、冤罪が晴れて、無罪が確定して、釈放された、という肩書のはずだけど、街を歩けば、いまだにじっと見つめてくる目がある。
「でもあの人、自白したんでしょ?」
「無罪って言ってもさあ、十七年も……」
声には出さないけど、目がそう言ってる。
川沿いを歩いていると、思い出すのは、ずっと前にあの子の遺体が見つかった場所。
草が生い茂っていて、今はもう慰霊碑さえ撤去されていた。
誰も覚えていないふりをする。でも、忘れてなんかいない。
なにより、わたしが忘れられない。忘れようとしても、無理だった。
十七年と数ヶ月。獄中で何を思っていたか、よく聞かれる。
毎日思ってたのは、ただひとつ。「あの刑事たちは、なぜここまでやったのか」だ。
取り調べ室は、窓もない、時間も感覚も消える部屋だった。
「証拠はもう出てる」
「おまえがやったんだ。なあ、早く言えよ」
何百回、何千回言われただろう。
でも、どこにも逃げ場がなかった。何度か、死のうとも思ったけど、それすら許されなかった。
弁護士も最初は、情状酌量を考えて認めたほうがいい、と助言した。
家族は壊れた。父はショックで倒れ、母は最後まで会えずに亡くなった。
時が止まった。だけど、時計は進み続けていた。
***
あの川辺に座り込み、ただ風を感じていると、背後で小さな音がした。
「……おじさん、なにしてるの?」
振り向くと、見知らぬ女の子が立っていた。
赤いスカートに、白いシャツ。年齢は、四歳くらいだろうか。
その瞬間、血の気が引いた。
――まさか……。
瞬きしても、まだそこにいる。
わたしは、言葉を失ったまま、彼女を見つめていた。
彼女の顔は、笑っていた。でも、それはどこか作り物めいていた。
目が、笑っていないのだ。黒く、底なしの空洞のような眼だった。
「ねえ、おじさん……なんであのとき、だまってたの?」
心臓が止まりかけた。
頭のなかで、「あのとき」とはいつのことかを探す。
でも、彼女が何を意味しているのかは、すぐにわかった。
自白した、あの夜。
わたしは、自分の中の声を完全に殺してしまっていた。
「本当に、言ってしまったんだな……」と、声にならない声でつぶやいたのを思い出す。
「わたし、さむかったの」
少女がふと、わたしの膝に手をのせた。指が、異様に冷たい。
「誰も、ほんとうのこと言わなかった。みんな、うそばっかりだった」
「でも、おじさんも、うそついたよね?」
わたしは、立ち上がることも、声を出すこともできなかった。
涙が、勝手にあふれていた。あの日、犯人に連れていかれた彼女。
目撃されたのに、無視された証言。あれは本当に、彼女だったのか。
「ほんとうのこと、言って。まだ、おそくないよ」
そう言った瞬間、彼女の姿がすうっと消えた。風に溶けるように。
まるで、はじめから何もなかったかのように。
***
翌朝、目を覚ましたとき、わたしはまだ川辺にいた。
夜露で服は湿っていて、体は冷え切っていた。
あれは夢だったのか? いや、手には彼女が残したらしい、小さな白いハンカチが握られていた。
そこには、筆跡のような文字で、こんな言葉が刺繍されていた。
「ほんとうのことは、誰も言わない」
***
数日後、あの記者に手紙を書いた。
事件を掘り起こし、真犯人の影にまで迫った、清水という男だ。
すべてを話そうと思った。いや、わたしには話せることなど、ほとんどない。
でも、伝えるべきは「見たもの」のほうだ。
手紙には、最後にこう書いた。
「川の中州で、わたしは彼女に会った。あの子は、まだそこにいる。
だれかが、うそをつき続けているかぎり、あの子は帰れないままだ」
返事はまだ来ない。いや、来るはずがないのかもしれない。
もしかしたら、あの手紙も、郵便受けに入れるふりをして、手の中で握りつぶしただけなのかもしれない。
……ただひとつ、確かなのは、
十七年目の午後、
わたしは、たしかに「彼女の声」を聞いた。