今になっても、あの夜の川面に浮かんだ光景を思い出すと、喉の奥がじりじり焼けるように渇いてくる。
父が酒に酔って口にした「河童」の話を、子供の頃の私は夢物語だと笑い飛ばしていた。だが、笑った舌の裏には、言葉にならない重苦しさがいつまでも張りついていたのだ。
父の一族が住むM町は、山と川に閉じ込められた小さな町だ。真ん中を流れるM川は、澄んでいるのに底を覗こうとすると泥色に濁って見える、不思議な川だった。私はそこに何度も遊びに行ったが、あの川の静けさは、町そのものが何かを隠しているように思わせた。
父はしばしば、河童の生態について細かく語った。
「甲羅なんぞ背負ってねえ。背中はワニみてえに硬ぇ鱗だ」「皿は犬の鼻みたいな粘っこい皮でな、渇くと動きが鈍くなる」……そんな調子だった。子供の私にすれば、妙に具体的すぎて気味が悪い。単なる怪談なら笑えるのに、父の声色には妙な確信があった。まるで隣家の子供の特徴を話すような調子で。
やがて私も小学六年になり、頭では「河童なんていない」と割り切るようになった。それでも正月に親戚の家へ行った折、酔った父が散歩に誘ったときには、胸の奥にざわつきを抱えたまま付いていった。
夜風に冷やされた酔気が父の頬を赤黒く染めていた。
川にかかる橋を渡るとき、父が不意に立ち止まり、上流に向かって大声をあげた。
「おーい! おおーい!」
橋の上を歩いていた数人の見知らぬ人々も振り返り、父の視線につられて川面を覗き込む。
胸から上を水面に出した影が、手を振り返していた。
月光に照らされた顔は、禿げ上がった円形の頭。指の間には水掻き。まさしく絵に描かれる河童の姿そのものだった。
私は息を呑んだが、周りの老婦人が「あら、珍しい」と小さく笑ったのがさらに恐ろしかった。誰一人、叫んで逃げようとはしない。
あれから三十年。私は縁あって再びM町に暮らしている。表向きはのどかな町で、夏には「がわっぱ祭」という祭が行われる。町の人々が踊り、仮装した子供達が川辺を練り歩く。しかし、あの祭の熱気の裏に、誰も語らぬ「本物」が潜んでいると私は知っている。
父が死ぬ前夜、病床で私の手を掴み、掠れた声でこう言った。
「いいか……河童は死ぬと干からびる。けどな、干からびたやつを、決して土に埋めるな」
理由を問おうとしたときには、もう父は息を引き取っていた。
不気味な確信を抱えたまま日々を過ごしていたある夏、川沿いを散歩していた私は、藪の陰に積まれた小さな筒袋を見つけた。縄で縛られたそれは乾いた皮のように見えた。恐る恐るほどいてみると、縮んだ人のような形をしていた。皿の痕跡のような凹みが、頭頂に黒ずんで残っていた。
私は袋を閉じ、再び縄で縛った。汗が止まらなかった。
その夜から、私の夢には必ず川の中の影が現れる。彼らは言葉を持たぬまま、私の枕元に立ち、粘りつく声で「お前、俺、返せ」と繰り返す。父の残した忠告の意味がようやく理解できた。
川は、いまも変わらず町を横切っている。昼は子供たちの遊び場だが、夜になると私には水面がざわめいて見える。あれは風ではない。彼らの手のひらが波を立てているのだ。
私は今日も見ぬふりをして通り過ぎる。けれど足音がふいに止まると、背後の水面から微かな声が追ってくる。
「俺 お前 返せ……」
[出典:840 :本当にあった怖い名無し:2009/08/22(土) 11:15:39 ID:JHpsKCxWO]
解説
「父と河童」は、民俗怪談の古層にある“水の神”の恐怖を、家族の記憶と世代の継承を通して再構築した作品だ。
主題は“信仰が風化した土地に残る、知ってはならない現実”であり、怪物譚というよりも土地と血の関係の物語として読める。
その根底には、「語ることでしか守れない禁忌」というテーマが静かに流れている。
まず冒頭。
「川面に浮かんだ光景を思い出すと、喉の奥が焼けるように渇く」という導入は、感覚と記憶を直接結びつけている。
“渇き”は単なる恐怖反応ではなく、この物語全体のメタファー──河童=水の存在に対する禁忌的な乾き──を示唆している。
父が酒を媒介に語る「河童の生態」も象徴的だ。
そこでは、絵本的な空想ではなく、異様なリアリティ(鱗の感触、皿の粘性)が描写される。
この“リアリティの過剰”が、読者に「語りが実体に触れているのではないか」という錯覚を生む。
つまり、父は“見た者”であり、語りによってその証を子へ渡してしまった。ここで既に“継承”が始まっている。
中盤、子ども時代の回想で物語は決定的に転倒する。
父が橋の上から呼びかけ、影が応える場面だ。
ここでの怖さは、異形の存在そのものよりも、それを当然視する共同体にある。
老婦人が笑い、誰も逃げない──この“日常の包摂”が、恐怖を一段深い層に沈める。
つまり、M町では河童は“怪異”ではなく、“共同体の構成員”なのだ。
川は町を割る境界ではなく、“人間と異界が共存する膜”として機能している。
父はその境界を意識的に保とうとしていた。
「干からびたやつを土に埋めるな」という遺言は、信仰というより封印の技術だ。
後半、成長した語り手が町に戻り、河原で“筒袋”を見つける場面。
これは父の禁忌を破る瞬間だ。
袋の中身は“干からびた河童”=異界の死骸。
触れる行為は、川と人との契約を破棄する“逆儀式”になる。
父の遺言が「埋めるな」だったのは、土に還せば“陸の死者”として世界を撹乱してしまうからだ。
だから彼らは“水の中で循環”し続けなければならない。
語り手がそれをほどいたことで、水の系譜が歪む。
夢に現れる「返せ」の声は、物理的な脅しではなく、秩序の回復を求める声である。
作品の力点は、ここで“怪異を説明しない”まま“理解”が訪れるところにある。
父の一言が後年、恐怖とともに意味を変える。
この“遅れて届く理解”が、真のホラーを生む。
河童の霊そのものは描かれず、読者の想像が川底へと沈んでいく。
また、M町の「がわっぱ祭」は、共同体が無意識のうちに恐怖を“娯楽化”している構図を示す。
異界の存在を笑いに変えることで封印を保っているが、語り手の帰還によってその均衡が崩れる。
つまり、信仰を忘れた祭は、信仰対象を再び呼び戻すのだ。
その滑稽さと薄気味悪さが、本作の深層に潜む社会的恐怖でもある。
語りの構成は非常に緻密だ。
・父の語り(過去)
・橋上の実見(子ども時代)
・再訪と発見(現在)
・夢と囁き(異界の侵入)
これらが時間を跨いで輪を描く。
父→息子→水面→声、と“伝達”が循環し、最後の「俺 お前 返せ」で再び呼びかけが成立する。
父がかつて河童に声をかけたように、今度は河童が息子を呼ぶ。
物語は完全な“反転”で終わる。
人が呼んだ怪異に、人が呼び返される。
この対称性が実に美しい。
さらに注目すべきは、文体の湿度と呼吸だ。
描写は控えめだが、全編に「水と渇き」の感覚が通底している。
冒頭の喉の渇き、川の濁り、父の酔気、干からびた皮膚、そして“汗が止まらなかった”という生理的反応。
これらが「人と河童の境界=水分量」で繋がっている。
河童を“乾かせば死ぬ”存在として定義した父の言葉は、同時に「人が乾く=信仰が死ぬ」という意味にも転化する。
語り手の渇きは、信仰の消滅の象徴なのだ。
この怪談の恐怖は、
「人間が信仰を忘れても、信仰されていた存在は人間を忘れない」
という一文に要約できる。
父の声が、河童の声と重なり、土地の記憶として受け継がれる。
だから結末の「俺 お前 返せ」は、復讐ではなく関係の回復要求であり、
“取り戻す側”と“取り戻される側”の入れ替わりを告げる呪文でもある。
「父と河童」は、恐怖を派手に描かず、静けさと湿度で読者の想像を侵す。
川は流れ続け、語りは途切れず、信仰は忘れられても“呼び声”は残る。
だから語り手が見ぬふりをしても、足を止めた瞬間、世界の水面が揺れる。
それは「呼ばれている」のではなく、「呼び返されている」――。
この作品が怖いのは、
河童が出るからではなく、人間のほうが既に河童の記憶の中にいるからだ。