今になっても、あの町の橋を渡るたび、喉の奥がひりつく。水を飲んでも消えない。
あの夜、川面に浮かんでいたものを見てから、渇きだけが身体の奥に残った。
父は酒が入ると、よく河童の話をした。
子供の頃の私は、酔っぱらいの与太話だと思っていた。けれど父の話し方だけは、どうしても冗談に聞こえなかった。
「甲羅なんぞ背負ってねえ。背中はもっと硬ぇ。ワニみてえに、ごつごつしてる」
「頭の皿も、つるつるした器じゃねえ。犬の鼻みてえな皮だ。乾くと動きが鈍る」
河童のくせに妙に細かい。昔話をなぞっているのではなく、見慣れたものの特徴を挙げるような言い方だった。母も私も笑って流したが、父だけは一度も笑わなかった。
父の実家があるM町は、山と川に挟まれた小さな町だ。真ん中を流れるM川は、晴れた昼でも水の底が見えにくい。澄んでいるはずなのに、覗き込むと途中から色が変わる。足を入れると浅いのに、目で見ると底が遠い。子供の頃から何度も遊んだ川なのに、私は最後まであの川の深さがつかめなかった。
小学六年の正月、親戚回りの帰りに、父が散歩に行くぞと言い出した。酒臭かった。断る理由もなく、私は上着を羽織ってついていった。
町はしんとしていた。遠くでテレビの音が漏れ、家々の灯りが川沿いに点いている。橋の真ん中まで来たところで、父が急に立ち止まった。
欄干に両手をかけ、上流へ向かって怒鳴るように呼んだ。
「おーい」
少し間を置いて、もう一度。
「おおーい」
通りかかった何人かも足を止めた。父を見たあと、そのまま川のほうを見る。誰も不思議そうな顔をしない。
月が出ていた。川面の真ん中あたりに、何かがいた。
胸から上だけ、水の上に出ている。最初は人かと思った。だが頭が妙に丸く、ぬらぬら光っている。手が上がった。指のあいだがつながっていた。顔まではっきり見えた気がしたが、思い出そうとすると、真ん中だけ抜ける。額のあたりだけが、いやに白く浮いていたことだけ覚えている。
向こうも、こちらに手を振っていた。
私の横で、知らない婆さんが小さく笑った。
「あら、出とるねえ」
それだけ言って通り過ぎた。連れの男も、川を見下ろして一度うなずいただけだった。誰も叫ばない。誰も逃げない。父も、そのまま相手を見ていた。久しぶりの顔を見るみたいに。
帰り道、私は何も聞けなかった。父も何も言わなかった。家に着くころには、さっき見たものを口にしたらいけない気がしていた。
それから三十年経って、私は仕事の都合でまたM町に住むことになった。町は少し便利になったが、川は変わっていない。夏になると、がわっぱ祭という祭りがある。子供が頭に皿の飾りをつけて歩き、大人が囃子に合わせて川沿いを練る。観光用に整えたような祭りなのに、日が落ちるころになると、町の者は川に近い側を少し空けて歩く。何を避けているのか、口にする者はいない。
父が死ぬ前の晩、病室で私の手首をつかんだ。かなり弱っていたのに、そのときだけ力が強かった。
「いいか」
掠れた声で、父は言った。
「干からびたやつは、土に入れるな」
聞き返そうとしたが、父はそのまま目を閉じた。翌朝には、もう話せなかった。
その年の八月、川沿いの藪で、私は小さな包みを見つけた。肥料袋ほどの大きさもない。古い縄で十文字に縛ってあって、雨に濡れた紙とも皮ともつかない質感をしていた。捨てられたものにしては、置き方が妙だった。藪の奥に押し込むでもなく、道の脇の見える場所に、きちんと寝かせてあった。
見なければよかった。
そう思いながら、私はしゃがみこんでしまった。縄が一本だけ緩んでいて、そこから黒っぽいものがのぞいていた。髪の毛には見えなかった。乾いた海藻みたいだった。
触れた瞬間、包みが軽すぎることに気づいた。
中身は骨でも肉でもなく、からの殻みたいにしぼんでいた。人の形に近いのに、人よりずっと小さい。肩から背にかけて硬い筋が浮いていて、頭のてっぺんだけ、丸くへこんで黒ずんでいた。
私は包みを閉じた。結び直そうとして、指がうまく動かなかった。縄が何度も滑った。
その夜から、夢に同じものが出るようになった。
橋の下の暗い水の中に、いくつも影が立っている。立っているというのがおかしいなら、浮いているのかもしれない。けれど夢の中では、あれは確かに私を待っている。顔は見えない。口も動かない。ただ、水をかいた音の切れ目に、声だけが混じる。
返せ。
そう聞こえる夜もある。
おれ、という音が先にある夜もある。
何を返せと言っているのか、考えたくないのに、橋を渡るたび考えてしまう。
昼のM川は、子供が石を投げ、犬を散歩させるような、ただの川だ。けれど夜になると、水面の揺れ方が変わる。風のない晩でも、橋の下だけ細かくさざめく。立ち止まると、その揺れがこちらをうかがっているように見える。
私は今も、見なかったことにしてその横を通る。
足を止めなければ、それで済むと思っている。
だが、ときどき背後で水音が一つだけ高くなる。
あの夜、父が呼びかけたときと同じ間合いで。
そのたびに思う。
あれは、父が向こうへ声をかけた最初の夜ではなかったのだろう。
もっと前から、あの町では、ああして呼び合っていたのだ。
[出典:840 :本当にあった怖い名無し:2009/08/22(土) 11:15:39 ID:JHpsKCxWO]