子どもの頃から、ずっと誰かに見られていた。
正確には、同じひとりの男だった。
顔を上げると、少し離れた場所に立っている。庭の端、校庭のフェンスの向こう、スーパーの自動ドアの外。距離はいつも一定で、近づきも遠ざかりもしない。ただ、まっすぐこちらを見ている。
頭には鈍い鉄色のヘルメット。後ろには布が垂れ、くすんだ緑の服を着ている。足首には白い包帯が巻かれていた。小学生のとき、社会科の資料集で同じ格好を見た。戦争中の兵隊だった。
でも、その男は写真よりも新しかった。色あせていない。呼吸しているみたいに、時々胸がわずかに上下していた。
ほかの人には見えていないらしい。私が振り返ると消えていることもあったが、次に顔を上げたときには、また同じ距離に戻っている。
怖くはなかった。むしろ、いないと落ち着かなかった。
私が転びそうになれば、遠くでわずかに身じろぎする。私が泣きそうになると、視線がほんの少しだけ柔らかくなる。守っている、というより、確認しているようだった。
何を、とは考えなかった。
***
中学二年の冬の夜だった。
両親はまだ帰らず、私は台所でミロを温めていた。鍋の中で茶色い液体がゆっくり回る。湯気が立ちのぼり、窓ガラスを曇らせる。
そのとき、背後に気配が落ちた。
振り向くと、彼がいた。
距離は一歩分。これまで保たれていたはずの間隔が、なくなっている。
意外と背が低い、と場違いなことを思った。
彼は鍋をのぞき込み、湯気の向こうで静かに口を開いた。
――それは、何でしょうか。
声は耳ではなく、胸の奥で鳴った。
「ミロだよ」と答えてから、ふと思う。
この人は、どこまで知っているのだろう。
カップを二つ出し、半分ずつ注いだ。
差し出すと、彼は両手で受け取った。包帯の白さがやけに生々しかった。
ふう、と息を吹きかけ、小さく啜る。
その瞬間、初めて、はっきりと胸が上下した。
――こんなに甘いものが、あるんですね。
私はなぜか、少し焦った。
甘いもの。戦場にはなかったのだろう。
この人は、ここに来るまで、何を口にしてきたのだろう。
「おかわりする?」と聞くと、彼は首を振った。
そして、敬礼した。
その敬礼は、私に向けたものではない気がした。
もっと遠く、私の背後にある何かへ。
次の瞬間、姿は消えていた。
***
翌日、ひとりでクッキーを焼いた。甘い匂いが部屋に満ちる。
ふと窓の外を見ると、庭の端に彼が立っていた。
距離は、以前と同じ。
私は窓を開け、「食べる?」と手を振った。
彼は微笑んだ。
けれど、その目は私ではなく、台所の奥を見ていた。
ゆっくりと、右手を額にあてる。
敬礼。
その瞬間、彼の輪郭が淡くなり、布が一度だけ揺れ、消えた。
***
それ以来、彼は現れない。
けれど、あの夜から、視線は消えていない。
料理をしているとき。
鍋をのぞき込むとき。
湯気が立ちのぼるとき。
背後に、ぴたりと立つ気配がある。
振り向いても、誰もいない。
けれど、距離は一歩分。
あのとき、半分こにしたのは、飲み物だけだったのだろうか。
甘い匂いが立つたび、胸の奥で声がする。
――それは、何でしょうか。
私はまだ、答えていない。
(了)