子どもの頃から、ずっと誰かに見られていた。
正確に言えば、同じひとりの男だった。
顔を上げると、そこに立っている。距離は少し離れている。だけど視線はまっすぐ、確かに私に注がれている。
男はいつも同じ格好をしていた。頭には鉄のような鈍色のヘルメット。後ろには襟足を覆う布がひらりと垂れている。上はくすんだ緑色の作業服のような服で、足首には包帯が白く巻かれていた。
最初はただの変わったおじさんだと思っていた。けれど、小学生になった頃、社会の授業で写真を見た時にわかった。それは戦争中の兵隊の姿だった。
彼は、私がひとりで家の庭にいる時も、学校の校庭で友達と走り回っている時も、母とスーパーで買い物をしている時も、変わらず現れた。
遠くの人混みの端で、木の陰で、道の向こう側で、ただ立ってこちらを見ていた。
ほかの人には見えていないらしい。気づくのはいつも私だけで、振り返った瞬間にはふっと姿がなくなっていることも多かった。
普通なら怖がるべきなのだろう。けれど、私にとっては生まれた時から傍にいるような存在だった。
恐怖はなかった。むしろ、姿を見つけると少しだけ安心した。
きりっと引き締まった顔なのに、どこか優しさを感じる。頬や顎の線は硬いけれど、目元には穏やかな光が宿っていた。古い白黒写真に写る、戦前の「古き日本人」の顔だった。
***
中学生になってからも、それは続いた。
けれど、ある冬の日に初めて違う出来事が起きた。
期末テストを控えた寒い夜。両親はまだ帰っておらず、台所にひとりで立っていた。ミロを鍋で温め、湯気がゆらゆらと立ち昇っている。
すると、背後に人の気配。振り向くと、そこに彼がいた。
その距離、わずか一歩分。手を伸ばせば触れられるほど近かった。
驚きは不思議と少なかった。むしろ、半分眠気に覆われた頭で、意外と背が低いんだな、なんて場違いな感想を抱いていた。
その時、声が響いた。耳ではなく、胸の奥で鳴るような感覚だった。
――それは、何でしょうか?
視線を向けると、彼は鍋をのぞき込み、湯気に顔をかすめながらじっと見ていた。
「ミロって言っても、わかんないよね……」と口の中で呟き、私は思いつくままに「半分こしよう」と言った。
鍋からカップに注ぎ、一つを彼に差し出す。
――失礼します。
再び、声が胸の奥に響く。
両手でカップを持つと、彼は口を近づけてふう、ふうと息を吹きかけ、小さく啜った。
その顔は、初めて見るほど柔らかかった。瞳が細くなり、口元にほのかな笑みが浮かんでいる。
飲み終えると、また声が響いた。
――こんなに美味いものがあるんですね。
少ししかあげられなかったのを悪く思い、「おかわりする?」と聞いたが、彼は首を横に振った。
カップを返し、背筋を正して敬礼すると、次の瞬間には空気の中に溶けるように姿が消えていた。
***
翌日、家でひとりクッキーを焼いていた。甘い香りが台所に満ち、焼きたてを皿に並べていた時、窓の向こうから気配を感じた。
庭先に、彼がいた。
ヘルメットの布が風に揺れ、包帯の足は土の上に静かに立っている。
私は窓越しに手招きをした。けれど、彼は穏やかに微笑み、首を横に振った。
そして、ゆっくり右手を額にあて、敬礼した。
その瞬間、ふわっと彼の輪郭が淡くなり、布が一度だけふわりと浮き上がったかと思うと、完全に消えていた。
***
それ以来、彼は一度も現れていない。
時々、夢の中にでも出てくれないかと願うけれど、叶ったことはない。
美味しいものを食べた時、料理がうまくできた時、私はふと考える。
――兵隊さん、今どこで、何を食べているのかな……と。
あの夜、初めて口にした甘い飲み物の味を、まだ覚えてくれているだろうか。
もしも覚えているなら、きっとまたどこかで微笑んでいるはずだ。
そう思うと、胸の奥が少しだけ温かくなる。
まるで、あの時のミロの湯気がまだ残っているみたいに。