俺の祖父が体験した話だ。
もう三〇年近く前、九〇年代の終わり頃のことらしい。
祖父は今でも九州の片田舎に住んでいて、家の周りには茶畑と、ひなびた温泉宿くらいしかない。冬になると山の霧が濃く、野良犬の鳴き声さえ底の深い川鳴りのように響く土地だ。
その日、祖父はいつものように茶の木の手入れをしていた。
枝を刈るのは来年の芽を良くするための年中行事で、祖父は昔から几帳面で、一本一本の枝ぶりを確かめながらハサミを入れる。
昼過ぎに始めた作業も、気がつくと夕暮れどきになっていた。
西の山影が濃くなり、空が薄紫色に染まりかけた頃、祖父は納屋の道具を片づけて軽トラに乗り込んだ。
帰り道は山道だ。舗装はされているが、道幅は狭く、くねくねと曲がっていて、ところどころ落石防止のネットがだらしなく垂れ下がっている。
俺も子どもの頃に乗せてもらったことがあるが、助手席から谷底が見えるたびに冷や汗をかいたのを覚えている。
その日も祖父は、エンジンを唸らせながらカーブをいくつか曲がっていた。
ふいに、道の真ん中に黒い影が見えた。
慌ててブレーキを踏むと、ギギィッとタイヤが鳴って軽トラが止まった。
前方、ちょうどヘッドライトの中央に――鹿が転がっていた。
若くはなさそうな個体で、毛並みが乱れ、口から泡を吹いていた。
事故に遭ったのだろうか。角が折れ、胴体の下から赤黒いものが滲み出ていた。
問題は、その鹿の腹に覆い被さるようにしていた、黒い小さな影だった。
最初は野犬かと思った。
その辺りでは時折、捨て犬が繁殖して群れを作ることがある。
だが、ライトに照らされたそいつの姿を見て、祖父は全身の血が冷えたらしい。
その生き物、野犬にしてはおかしい。
異様に、頭が……でかい。
身体の三分の一はあろうかという頭部が、ずるずると地面を這うように動き、車の方に向き直る。
引きつったような動作で、顔――いや、頭部の“それ”が車の光を反射した。
眼だ。
小さな、小さすぎる黒い眼が、頭の中央にふたつ並んでいた。
まるで人間の赤ん坊のような、だが瞳孔はぎらぎらと光り、光の輪がいくつも重なって見える。
毛むくじゃらの身体とは対照的に、顔だけは毛がまばらで、皺が深く刻まれていたという。
ちょうど髭を剃らずに何日も放置した中年男の頬のような、脂ぎって艶のない肌。
鼻と口があるはずの場所は凹み、代わりに裂けたような裂け目が斜めに走っていた。
祖父はクラクションを鳴らした。
「ぱぁぁぁああああん」
けたたましい音に山が震える。
けれど、その生き物は逃げなかった。
鹿の腹に噛みついたまま、しばらく動かなかったが、やがてずるずると鹿の死体を咥えて道路の脇へと引きずった。
そこで伏せたまま、こちらを見て、笑った。
いや、笑っているように“見えた”らしい。
裂けた口の端がぐにゃりと上がり、血と臓物をまとった顔で、じっとこちらを見ていたという。
その笑いが、何か言葉を発する直前の、そんな表情に思えたそうだ。
「気味が悪い」
祖父はそう思いながらも、このままここにいては埒が明かんと、軽トラをゆっくり進め始めた。
そのときだった。
クラクションの音が止まり、あたりがしんと静まり返った瞬間、車内に響いた。
誰かの声。
はっきりとした、低い、湿った声が……
「アっ……アっ……おちる……おちるよぉ……」
背中に氷を流し込まれたようだったという。
声の主を振り返ることもできず、祖父はただアクセルを踏んだ。
ガタガタと軽トラが跳ねる。
ヘッドライトが木々の影を揺らし、視界の端で黒いものがずるりと動いた気がしたが、見ないようにしていた。
数分後――
山道の中ほどで、なぜか祖父は急に車を停めたらしい。
何がそうさせたのか、いまだにわからないという。
ただ、「違和感」があった。
道の勾配、ハンドルの感触、遠くで聞こえる水の音――
軽トラを降り、懐中電灯を手に進んだ。
数歩。
そこには、何もなかった。
道が、なかった。
舗装道路は途中でぼっきりと切れ、先は、ぽっかりと闇。
谷がえぐれたように、道半分が崩落していた。
その裂け目の下から、かすかに水の音が聴こえてきたという。
落ちていたら、どうなっていたか。
祖父はしばらくその場から動けず、震える膝を押さえながら、声のことを思い出していた。
「おちる……おちるよぉ……」
――あれは、教えてくれたのかもしれない。
あの頭の大きな生き物が、道を塞いで、動かず、声を発したのは、崩落を知らせるためだったのか……。
祖父は今でも言う。
「あれは山の神様だ。変わった姿だけど、悪いもんじゃない。助けてくれたんだ」って。
けれど、俺はあまり賛成できない。
祖父の話を聞いた夜から、俺は何度もあの場面の夢を見るようになった。
まるで自分が現場にいたかのように――
鹿の死体、血まみれの裂けた口、小さすぎる眼。
そして……あの声。
「あの声には、警告じゃない……もっと違う、ぞっとするような“嬉しさ”が混じっていた気がしてならないんだ」
あの顔を、あの目を、あの声を……
思い出すたび、背中が冷たくなる。
もし祖父がそのまま進んでいたら――
今、俺がこの話を語ることもなかったはずだ。
けれど、それは本当に“助けられた”って言えるのか?
助けたように見せて、こちらを見て、笑っていたあの存在は――
何だったのか。
もうすぐ、祖父の暮らす村では、お盆の火が灯る。
山の麓では、あの道も未だに通行止めのままだ。
そして、今でも夢に出る。
血に塗れた顔が、裂けた口をぐにゃりと歪め、俺の方を見て――笑っている。
(了)