十数年前、ある夏の夕暮れどき。蝉の声もどこかくぐもって聞こえる、そんな日だったという。
大学生のまゆみさん(仮名)は、夏休みのあいだお中元の配達アルバイトをしていた。いわゆる宅配業務だが、会社の車ではなく自家用車を使う少し変わったスタイルで、配達件数に応じて報奨金もつく。単調な作業だったが、道順を工夫すれば効率よく稼げるため、まゆみさんは喜んで日が暮れるまで働いていた。
その日も汗をぬぐいながら、最後の一軒へと向かっていた。住宅地のなかでも一際大きな門構えの家。玄関先まで車を乗り入れ、チャイムを押す。待つこと数秒、すっと引き戸が開いて、品のある中年の女性が現れた。
「まあ、ごくろうさまね」
にこやかに言いながら、荷物を受け取ると、玄関脇の部屋に印鑑を取りに入った。
だが、すぐに戻ってきたその女性の様子が、明らかにおかしかったという。
まゆみさんの目をまっすぐに見据え、口調を変えて、いきなりこう言った。
「これ、開けたわよね?中身がぐちゃぐちゃ。あなたがやったの?どういうつもり?」
なにを言われているのか分からず、ただ口を開けて立ち尽くしていると、女性はさらに語気を強めた。
「分かってるの。正直に言って。今、営業所に電話するから、家の中に入って!」
有無を言わせぬ勢いで手を引かれ、あっという間に家の中へ。背後で玄関の戸が閉まり、鍵のかかる音がしたとき、背筋がぞっと冷えたという。
「違います、私、なにも……!」
涙声で訴えるまゆみさんを無視して、女性は固定電話の受話器をとり、素早く番号を押した。
その瞬間まゆみさんは、これは警察に通報されるのだと、恐怖で膝が震えた。
だが、女性が口にしたのは、思いも寄らぬ言葉だった。
「もしもし、警察ですか。今、配達の人がうちに来てるんですけど……私が印鑑を取りに行って窓から外を見たら、その人の車に、刃物を持った男が乗り込んで、後部座席に潜り込んでいるのが見えたんです」
通話を終えると、女性はふうと深く息をつき、まゆみさんの前に戻ってきた。
そして、こう言った。
「ごめんなさいね。でも、外であなたに伝えたら、逃げられるかもしれないと思って……だから、演技したの。信じてくれるか分からなかったけど」
口調は穏やかだったが、指先はかすかに震えていたという。
五分も経たないうちに、複数のパトカーが到着し、女性の指差す方向へ一斉に駆け寄った。囲まれた車の中から引きずり出されたのは、やせ細った男。年齢は四十代くらいで、ぼろぼろの病院着を着ていたという。
後の調べで、その男は近くの精神病院から脱走してきたことが分かった。目の焦点は定まらず、意味の通じない言葉を繰り返していた。彼は、ただ「家に帰る」としか言わなかったという。
目的地も手段も曖昧なまま、たまたま見つけた車に乗り込もうとしただけだったのかもしれない。けれど、まゆみさんのように、一人で車を運転する若い女性が相手だったら、もし発進した直後に気づいていたら、どんなことになっていたのか……考えるだけで、ぞっとする。
この一件は、どの新聞にも載らなかった。病院側が内々に処理し、報道を控えさせたらしい。
けれど、今でもまゆみさんは、配達であの家に行った日のことを、夢のように思い出すという。白昼に起こった、静かな狂気の瞬間として。
そして決して、車に乗る前は必ず後部座席を見ることを忘れないようにしている。助手席の窓越しに、自分の背後に誰かの顔が映るのではないかと……確認せずにはいられないからだ。