廃線の駅に泊まったのは、予定ではなかった。
学生の頃、バイクで一人旅をするのが好きだった。地図に印を付けず、走っていて気になった道にそのまま入る。夕方になれば林道脇や河原にテントを張り、朝になれば何事もなかったように走り出す。それを繰り返すだけの、単純な旅だった。
その日も、昼過ぎまでは天気がよかった。山あいの細い道を走り、舗装が怪しくなってきた頃に夕立が来た。最初はすぐ止むと思っていた。だが雨は強くなり、空は暗くなり、林道にテントを張るのは無理だと判断した。
少し戻ったところに、線路跡と小さな駅舎があった。廃線になってから随分経っているらしく、レールは錆び、駅名標も外されている。屋根が残っているだけでも助かった。雨宿りのつもりでバイクを寄せ、そのまま一晩過ごすことにした。
駅舎の中は埃っぽく、ベンチは木がささくれていた。固形燃料のコンロで簡単な食事を済ませ、寝袋を敷いて横になる。雨音が屋根を叩き、風が抜けるたびに古い建物がきしんだ。眠りは浅かったが、疲れもあっていつの間にか意識が落ちた。
夜中、尿意で目が覚めた。雨音がしない。外に出ると、空気が妙に冷たい。山の夜にしても冷えすぎている。用を足している最中、頬に冷たいものが当たった。
最初は水滴だと思った。だが、落ちてくるものは不規則で、手の甲に乗って消えた。
見上げると、暗闇の中で白いものがちらちらしている。街灯はない。ヘッドライトを点けると、光の中を雪が舞っていた。
夏だった。標高が高いとはいえ、雪が降る時期ではない。息を吐くと白くはならない。現実感がなく、夢を見ているのかと思った。何度か瞬きをし、頬を叩いた。それでも雪は降り続いている。
静かだった。音がほとんどない。雪が落ちる音も、風の音もない。ただ白いものだけが、ゆっくりと駅の構内を満たしていく。
長く外にいる気がしなかった。寒さよりも、ここに立ち続けてはいけないという感覚が先に来た。駅舎に戻り、寝袋に潜り込んだ。外がどうなっているか考えないようにして目を閉じた。
次に目が覚めたのは朝だった。
明るい。雨も雪もない。地面は乾き、バイクにも駅舎にも、白い痕跡は一つも残っていなかった。昨夜のことを思い返しても、感触だけがはっきりしていて、光景はどこか曖昧だった。
朝食の準備をしながら、駅舎の中を見て回った。壁には落書きがびっしり残っている。名前、日付、意味の分からない言葉。肝試しの記念だろうと思えるものもあった。
その中に、一つだけ妙に整った文字があった。
『昭和○○年 ○月○日
○○線 廃線
名残雪に見送られ 終電は無事発』
ペンではなく、何か尖ったもので彫り込んだような文字だった。新しくは見えない。だが、古いとも言い切れない。
視線を落とすと、その下に別の書き込みがあった。
『発車時刻 二十三時四十二分』
時刻を見た瞬間、胸の奥がざわついた。昨夜、目を覚ました時間だ。正確な分までは覚えていない。ただ、スマホを見たときの表示と一致していた気がした。
その横に、さらに小さく文字が続いている。
『客一名』
駅舎には他に誰もいない。昨夜も、今もだ。なのに「一名」と書かれている。自分のことだと考えると、急に息苦しくなった。
慌てて外に出て、構内を見渡した。線路跡の向こうに、低い土盛りが続いている。その上に、踏み固められたような跡が一本伸びていた。雪の跡ではない。だが、人が歩いたようにも見えない。均一で、途切れず、駅の端で途切れている。
自分が立っていた場所だ。
急いで荷物をまとめ、バイクに跨った。エンジンが一度でかかったのが救いだった。振り返らずに走り出した。
しばらく走ってから、バックミラーを見た。駅舎はもう見えない。だが、ミラーの端に、一瞬だけ白いものが横切った気がした。
その後、旅を続けたが、あの駅の場所を地図で探しても見つからなかった。廃線の記録はある。駅名も一致する。だが、そこに駅舎が残っているという情報はなかった。
今でも、夜中に目が覚めると、発車時刻を確かめてしまう。二十三時四十二分を過ぎていると、少しだけ安心する。
ただ、それが何の発車だったのかは、考えないようにしている。
[出典:127 :元登山者:2009/05/04(月) 22:47:13 ID:L7qV79dK0]