山に囲まれた町へ法事で戻った帰り、ひとりで小学校の通学路を歩いた。
舗装の継ぎ目に雑草が指のように生え、側溝の水はぬるい。斜面から滲み出す湿気が、鼻の奥に薄い膜を張る。遠くで電柱が鳴っている。低く、一定のうなり。子どもの頃から知っている音のはずなのに、その日は鼓動の代わりみたいに聞こえた。
校庭の隅にあった銀色の遊具は撤去され、砂の上に四角い跡だけが残っている。影の中心に鳥の足跡が重なり、踏むと湿った砂が靴底に貼りついた。
バス停の裏の斜面に、子どもの腰ほどの窪みがある。落ち葉が溜まり、柔らかく沈む。風はないのに、その口からだけ生ぬるい空気が出ているように感じた。
背中の汗が冷えた。
坂の下から足音がひとつ、ゆっくり近づく。振り返らない。振り返る前に、思い出が先に立つ。
七つか八つの頃の私。帽子のゴムが喉に食い込み、汗で塩の線ができていた。あの日、同じ場所で声をかけられた。
顔は思い出せない。いつも目尻だけが残る。光が溜まる皺と、頬の下にできる影。声だけははっきりしている。笑っているのに、声は笑わない。
「地の底のほうへ、少し遊びにいってみよう」。
遊び、という言葉だけが軽く、他は重かった。私は頷いた。頷くとき、首の後ろが固くなったのを覚えている。
そこに線路はなかった。車輪もなかった。だが、乗り物はあった。座席は指先からわずかに浮き、黒い口へ滑るように進む。奥は真っ暗ではない。土の壁の奥で、細い金の筋がゆっくり動いていた。
匂いが変わる。鉄の粉、湿った苔、古い紙。壁は呼吸しているように膨らみ、縮む。道は幾筋も交差し、どこからか灯りが滲む。色は変わらないのに、意味だけが変わる。
広い場所に出た。床は吸い付くように足を受け止める。巨大な葉が垂れ、黄金色の実が揺れている。
頭上から声が降りた。低くないのに低く聞こえる。何を言われたのか、言葉は残っていない。ただ、胸の奥に何かが貼り付いた感触だけがある。薄い札のようなものが、剥がれないままそこにある。
帰りは短かった。地上の風が肌に触れたとき、私は泣いていたかもしれない。
家で話した。母は困った顔をして笑い、父は新聞の端を折り、食器の音が大きくなった。私はそれで黙った。
翌日、窪みはただの落ち葉だった。
それから何年も経った。
都会で暮らし、換気扇の音を聞きながら眠り、目覚ましを止める指がわずかに震える朝を繰り返した。机の引き出しには、どこで手に入れたのか覚えていない紙の半券がある。日付は滲み、地名は読めない。
法事のために戻った町で、私はまた通学路を歩いた。
窪みの前に、ひとりの子が立っていた。小さな鞄。首に白い日焼けの跡。振り返った顔は、はっきりと見えないのに、どこかで見た輪郭だった。
声をかけるつもりはなかった。
けれど、舌の上に音が載った。
「地の底のほうへ、少し遊びにいってみよう」。
自分の声なのに、胸を通らなかった。子は迷わなかった。迷わない顔は、一瞬だけ柔らかくなる。
窪みの奥は暗くない。暗くないのに色がない。土の壁を金の筋が走る。私は先頭に座り、振り返らない。背後で小さな息がする。
広い場所。巨大な葉。黄金色の実。
頭上の声。
私は顔を上げる。そこにいるのは、あの日と同じ誰かかもしれないし、違うかもしれない。輪郭の外側で薄い光が揺れている。
子は私を見上げる。目は問いを含まない。
私は何も説明しない。説明すると、形が崩れる気がする。
帰りは短い。地上の風。坂道。
子は小さく礼をして走っていった。
私は右手首の内側に、見慣れない痕を見つける。楕円の周囲に小さな点が並んでいる。触れても動かない。皮膚の下に沈んでいる。
家に戻り、半券を机に置く。
その夜はよく眠れた。
朝、袖をまくる。痕はある。
通学路の子どもたちの列が揺れる。私は列の脇を歩く。足音は一定。うなりは一定。
ひとりの子が振り返りかけ、また前を向いた。
私は呼ばない。呼ばれるときだけ、口を開く。
この話をすると、誰も反応しない。しないことが正確なのだと分かっている。沈黙はぬるい。皮膚の近くにある温度だ。
うなりは今日も一定だ。
坂の途中の窪みは、落ち葉で柔らかい。
私の手首の痕は、まだ消えない。
[出典:270 :270:2012/05/24(木) 16:48:39.30 ID:fHAXJ+lT0]