怖いってほどじゃないけど、今でもふとした瞬間に思い出して、ぞわっと背中が冷える。
某県のS市で働いていた頃の話だ。
当時俺が勤めていた会社は、S市の中心から少し外れた雑居ビルの四階に入っていた。
古くからある建物で、壁はどことなく煤けていて、雨が降ると窓の隙間からかすかに風が入ってきた。
トイレの配管はいつも音を立てていて、床は足音を吸収するどころか、逆に響かせてくるような材質だった。
今思えば、あの建物自体が何かの器だったんじゃないかとさえ思う。
S市は昔から少し妙な土地として知られていたらしい。
地元では有名な霊能者――寺尾玲子という人が、こんなふうに言っていたそうだ。
「S市は、人が住むにはあまり適していない場所が多い」
理由はいくつかある。
土地全体に古墳が点在していて、今現在も人々が生活しているその下には、何世紀も昔の権力者たちの骨が埋まっているということ。
もうひとつは、江戸時代から商人の町として賑わっていたために、その当時の人々の“念”のようなものがまだこの土地にこびりついているという説だ。
欲や競争や執念や――そういうものが、薄まらず、時折、地表に浮き上がってくる。
水面に浮かぶ油膜のように、じわりと。
前置きが長くなった。
問題の出来事の前に、いくつか小さな話をしておく。
俺の会社では、いわゆる「心霊体験」と呼ばれる話がけっこうあった。
多かったのはトイレ周りの話。
誰も使っていないはずの個室から水が流れる音がする。
電灯のスイッチが誰もいないのにパチパチ勝手に切り替わる。
便器のフタがゆっくり開いたり閉まったりするのを見た、なんていうのもあった。
一度、入社して三日目で辞めた新人がいた。
黒い影が、ずっとトイレの個室に立っていたと言っていた。
その目が妙に潤んでいたのが印象に残っている。
フロアでもおかしなことはあった。
明らかに自分しかいない時間に足音がする。
デスクで仕事をしていると、誰かがすぐ後ろに立っている気配がする。
息遣いが耳元にかかるようにして聞こえた、なんて話も何度か耳にした。
でも、俺はというと、そういう体験とは無縁だった。
霊感ゼロだし、そういう話もどこか他人事だった。
むしろ、ちょっと羨ましいとさえ思っていた。
そんな俺にも、一度だけ、“それ”があった。
その日も残業で、フロアに残っていたのは俺と同僚のTだけだった。
時計はもう二十二時近くを指していた。
俺たちはパソコンの電源を落とし、会話もなく荷物をまとめて、エレベーターへ向かった。
ビルには二基のエレベーターがあるが、そのうち一基はもう十年以上前から動いていなかった。
稼働しているのは一基だけで、操作パネルも古く、階数表示のランプがしばしば点滅したり、消えたままのこともあった。
四階で待つこと十数秒、ゴウン……という沈んだ音と共に、エレベーターのドアが開いた。
俺とTは何気なく乗り込み、Tが一階のボタンを押した。
一応、降下しているような感覚はあった。
だが、ランプの表示はなぜか「4」のまま。
エレベーターが揺れ、静かに停止する。
ドアが開いた――
そこは、また四階だった。
いや、俺たちは四階を出て、エレベーターに乗って、確かに下降していた感覚があった。
でも、目の前には四階のいつもの廊下が広がっている。
「おい、なんだこれ」
Tが気まずそうに笑いながら、もう一度ボタンを押す。
今度は俺も階数表示をじっと見つめていた。
やはり「4」から動かない。
なのに、機械の感覚としては下っている。耳が少しだけ詰まるあの感じもあった。
ふたたび停止音。
ドアが、開く。
やはり、四階だった。
何かの故障かと思い、もう一度乗ってみようという話にもなったが、俺たちは無言のまま顔を見合わせ、結局階段を使うことにした。
エレベーターの中にいると、何かに“待たれている”ような気がしたからだ。
一階に降りて外へ出たとき、夜風が妙に生ぬるく、皮膚にまとわりついてきた。
それが妙に気持ち悪かった。夏でもないのに、夜の風が、湿っていた。
翌日、総務にエレベーターの異常を報告したが、業者の点検では異常は見つからなかったという。
「正常に動作しています」と記録にも残っていた。
それから数日後。
同僚のTが、会社を辞めた。
理由は「実家の都合」とのことだったが、送別会には顔を出さなかった。
彼の机には、私物が一つも残っていなかった。
俺はというと、その日以来エレベーターを使うのをやめた。
足を使って階段を上がるのは億劫だったが、どうしても、あの箱にもう一度閉じ込められる気がしてならなかった。
たかがエレベーターの話だ。
怖いというほどの話じゃない。
けれど、いまだにときどき夢に見る。
夢の中でも、俺は降りることができない。
どれだけ下降しても、ドアが開くたびに、そこはいつも――四階だった。
[出典:49 :本当にあった怖い名無し:2022/03/10(木) 11:14:52.71 ID:InC4UuMw0.net]