あれは高校二年の夏、台風の夜のことだった。
……いや、正確には、もっと前から始まっていた。
毎晩のように起きていた出来事を、私はただ生活の一部として受け入れてしまっていた。疑問を挟む余地もなく、理由を考えることもなく、「そういうもの」として。後から思えば、それ自体がすでにおかしかったのだ。
うちの両親は、夜に対して異様に神経質だった。
子どもだった私と妹は、八時を過ぎるとテレビを消され、九時には布団に入れられた。門限というより、遮断だった。夜の時間帯に、私たちが起きていること自体を嫌っているように見えた。
中学生になり、部活や宿題を理由に寝る時間が遅くなった頃、私は気づいた。
決まって夜十一時前後になると、家の前の道を何かが通り過ぎる。
姿は見えない。ただ音だけがあった。
「チャラッ……チャラッ……」
金属が擦れるような、引きずられるような音。
それに混じって、低く抑えた声が、意味を持たない調子で続く。
最初は誰も気にしていなかった。
「犬の散歩だろう」
いつの間にか、そういうことになっていた。雨の日も、風の日も、欠かさず同じ時刻に通るのに、誰も疑問を口にしなかった。
高校二年の夏。
台風が直撃した夜、その音はいつもと同じようにやってきた。
雨が窓を叩き、風が家を揺らす中で、鎖の音だけは変わらなかった。
外を覗こうとしても、ガラスは水で歪み、街灯の光は溶けて、道の形すら掴めない。
翌日も、翌日も、音は来た。
気になって仕方がなくなった私は、カーテンをほんの少しだけ開け、窓に額を押しつけた。
音は確実に近づいてくる。
なのに、道には何もいない。
耳では「そこにいる」とわかるのに、目がそれを拒んでいた。
耐えきれず、私は窓を開け、身を乗り出した。
二階の真下を、何かが通り過ぎていった。
見えたのは、足だけだった。
地面から離れているのに、歩いている。
その足首には、錆びた金属が嵌まっていた。
音が遠ざかるまで、私は息ができなかった。
翌日、友人たちに話すと反応は分かれた。
笑う者、信じない者、面白がる者。
悔しくなった私は、来ればいいと口走った。
その夜、三人が来た。
庭の物置に潜み、懐中電灯を握り、無駄話で時間を潰した。
やがて、音が来た。
最初は誰も何も言わなかった。
だが、近づくにつれて、空気が変わった。
鎖の音に混じって、声がはっきりと形を持ち始める。
歌だった。
意味のわからない古い節。
聞いたことがあるような、ないような。
生温かい臭いが、物置の中に流れ込んできた。
突然、背後で物が倒れる音がし、二人が叫びながら飛び出していった。
私は動けず、隣にいた小松の腕にしがみついた。
扉の外から、音が近づいてくる。
光の輪の中を、足が通り過ぎた。
その先は、思い出せない。
気がついたとき、私は家の中にいた。
両親が何も言わず、黙って世話をしていた。
その後も、音は止まらなかった。
引っ越すまで、毎晩。
理由はわからない。
なぜ歩くのか。
なぜ歌うのか。
今でも思う。
あれは、見てはいけないものだったのではない。
気づいてはいけないものだったのだ。
夜の十一時。
もし静かな場所を歩いていて、鎖の音が聞こえたら。
それは、あなたの後ろを通り過ぎているだけかもしれない。
(了)