あの電話番号を、今でも使っている。
新しいアパートに移ったのは、三年前の春だった。家賃が安く、駅からも遠くない。古い建物ではあったが、暮らしを立て直すには十分だと思った。
固定電話など、今さら必要なかった。けれど部屋の契約と一緒に、管理会社から古い加入電話の引き継ぎを勧められた。仕事で使うこともあるだろうし、番号もきれいですから、と担当の男は言った。
番号にきれいも汚いもあるものかと思ったが、断る理由もなかった。
電話をつないだ翌日の夕方、最初の電話が鳴った。
「照井さんのお宅ですか」
年配の女の声だった。違います、と答えると、女は少し黙ってから、「そうですか」とだけ言って切った。
その次は男だった。
「照井、いる?」
違います、と言うと、間違えました、とも言わずに切れた。
それから数日おきに、照井という男を呼ぶ電話が入るようになった。友人らしい者、昔の勤務先らしい者、そして明らかに金の話をしている者。相手はみな、私が違うと告げると黙った。中には、こちらの声を確かめるように、しばらく息だけを残して切る者もいた。
ある晩、留守番電話に怒鳴り声が入っていた。
「おい、照井。いい加減にしろよ。明日までに連絡よこさなかったら、こっちも考えがあるからな」
声はそこで途切れていた。
管理会社に電話したが、前の番号の使用者まではわからないと言われた。気になるようなら番号を変えてください、と軽く返された。
変えなかった。
面倒だったのもある。だが、それだけではなかったと思う。私は、その番号にかかってくる電話を、どこかで待つようになっていた。
照井という男の輪郭が、少しずつ部屋に染みてくるのを感じていた。誰かに追われていたこと。会社に出ていないらしいこと。人との約束を踏み倒すような男だったこと。女に恨まれていたこと。金に困っていたこと。
そのどれもが、私とは関係ないはずだった。
水の音が入るようになったのは、その二週間後だった。
留守番電話のランプが点滅していた。再生すると、最初にかすかな泡の音が聞こえた。水面の下で、空気が潰れていくような音だった。
その向こうで、誰かが話していた。
「……オカケニナッタ……」
電話会社の自動音声のようでもあり、男の声のようでもあった。
「……コノ……バンゴウハ……」
そこで何かが詰まる。息を吸おうとして、吸えないような音がした。
「……ツカワ……ナイ……」
それきりだった。
私は、古い回線の不具合だと思うことにした。だが次の日も、同じ時間に録音されていた。午後三時十四分。仕事から帰って再生すると、また水の中の音が流れた。
「……オカケニナッタ……バンゴウハ……」
三日目には、言葉が変わった。
「……オマエノ……オカゲデ……」
私はそこで停止ボタンを押した。
押したはずだった。
それなのに、受話器の奥で泡の音が続いていた。留守番電話は止まっている。再生ランプも消えている。なのに、黒い受話器の中だけで、小さな水音がしていた。
それから毎日、午後三時十四分になると電話が鳴った。
出なければ、留守番電話に水音が残る。出れば、向こうはしばらく黙っている。こちらが名乗ると、泡が弾ける。
「……モウ……ツカワナイ……」
ある日、私は怒鳴った。
「誰なんだ。照井ならここにはいない」
返事はなかった。
ただ、受話器を戻したあと、手のひらが濡れていた。
翌週、留守番電話に別の声が入った。水の音ではなかった。若い男の、事務的な声だった。
「照井さん、会社の村井です。無断欠勤が続いています。ご家族にも連絡が取れません。このままですと、こちらから警察に相談します」
そこで一度、呼吸が入った。
「聞いていたら、折り返してください。まだ、この番号で合っていますよね」
そのあと、三秒ほど無音があった。
続けて、水の音が入った。
「……アッテル……」
私は、その夜から眠れなくなった。
部屋の中で、水の気配がするようになった。台所の流しではない。浴室でもない。壁の中でもない。電話機のある低い棚のあたりから、かすかに湿った匂いがする。梅雨でもないのに、電話帳の端が波打っていた。

電話帳など置いた覚えはなかった。
棚の一番下の引き出しに、古い封筒が入っていた。入居した時には空だったはずだ。封筒には、私の筆跡で「捨てるもの」と書かれていた。
中には、古い請求書が何枚か入っていた。消費者金融の督促状。携帯電話の利用明細。水道料金の未払い通知。
宛名はすべて、照井だった。
だが住所は、この部屋だった。
名前の下に、小さく押された印鑑の跡を見たとき、私はしばらく動けなかった。見覚えのある印影だった。引っ越しの時、契約書に押したものと同じだった。
私は封筒を戻した。戻すしかなかった。
翌日の午後三時十四分、電話が鳴った。
私は出なかった。
留守番電話に、今まででいちばん長い録音が残った。水の音は遠かった。代わりに、すぐ耳元で誰かが息をしていた。
「……オマエノオカゲデ……ココカラ……デラレタ……」
私は再生を止めようとした。
「……モウ……ツカワナイ……」
声は、そこだけはっきりしていた。
「……ソッチヲ……ツカウ……」
その日を境に、照井宛ての電話は来なくなった。
代わりに、私の名前を呼ぶ電話が増えた。
昔の知人。前の勤務先。借りた覚えのない金の督促。別れたはずの女。誰もが、私がここにいることを当然のように知っていた。違います、と言うと、相手は黙る。そして必ず、少し間を置いてからこう言った。
「では、照井さんはいらっしゃいますか」
最近、電話に出る前に、自分の名前を確認する癖がついた。免許証、郵便物、銀行の通帳。どれもまだ、私の名前になっている。
ただ、固定電話の請求書だけが違う。
先月から、宛名が照井になった。
私はその番号を、今でも使っている。
変えようとしたことはある。電話会社に連絡し、事情を説明した。担当者は、少々お待ちくださいと言って保留にした。
保留音の向こうで、水が鳴っていた。
しばらくして戻ってきた担当者は、妙に平坦な声で言った。
「お調べしましたが、お客様はその番号を長くお使いです」
「長く、とは」
「最初からです」
「私は三年前にここへ来たんです」
「はい。照井様」
その時、部屋の電話が鳴った。
手に持っている携帯ではなく、棚の上の黒い電話だった。午後三時十四分だった。
私は担当者の声を聞きながら、受話器を見ていた。
「出たほうがいいですよ」
電話口の担当者が言った。
「そちら、もう鳴っていますから」
黒い電話は、今も鳴る。
私は毎回、少しだけ待ってから出る。すぐに出ると、向こうの水がまだ落ち着いていないからだ。
今日も受話器を取る。
「もしもし」
向こうで、私の声がする。
「照井さんですか」
私はいつものように答える。
「違います」
すると、少し安心したような息が聞こえる。
その声が、昨日までの私の声に似ていることには、もう触れない。
[出典:2005/05/20(金) 20:48:04 ID:BEszc9f70]