以前勤めていた病院の話だ。
救急の夜勤シフトだった。夜中の一時を回ったころ、救急車のサイレンが近づいてきた。
運ばれてきたのは六十代後半の男性。名札のないジャージに裸足。心停止状態だった。
いつも通りの手順だった。気道確保、心マッサージ、酸素投与。だが、蘇生のタイミングが明らかに遅れていた。体温も低い。どのくらいの時間、心臓が止まっていたのか不明だった。救急隊員が言うには、現場に到着した時点でもう反応がなかったという。
脈もなく、瞳孔も開きかけていたが、家族が後から駆けつけるというので、放棄するわけにもいかず、淡々と処置を進めた。
手技の一部を省いて言えば、心臓に強心剤を直で注射し、胸骨を一発。うっすらと波が戻った。
「まずい」
そう思ったのは、その波が、まるで人間の心臓ではないもののように、ぎこちなく、脈動していたからだ。
除細動器でドカンと一発。波形は……正常。いや、表面上は、正常だった。
ただ、妙だった。電気ショックを与える瞬間、患者の全身が、まるで意志を持ったように跳ね上がった。電気的な反応とは明らかに違っていた。
近くの若い看護師がボソッと呟いた。
「動かしちゃって、どうすんのよ……」
悪意じゃなかったと思う。戸惑いと、戸惑いの裏側にある、得体の知れないものへの恐怖。そういう感情がにじんでいた。
家族を処置室の外に呼び入れ、説明した。
「一応、心臓は動きました。ただ、心停止してからの経過時間が不明で、今後再停止する可能性も高いです。仮に心臓が安定しても、意識が戻るかどうか……」
言いかけたところで、母親らしき中年女性がぼろぼろと泣きながら口を開いた。
「動いたんですか?……救急隊の方は、もう助からないって、何もしてくれなかったのに……」
背中に、冷たいものが流れた。
やばい、と思った。いや、何がやばいのか、正確にはそのとき分かっていなかった。
ただ、なにか倫理の淵のようなものが足元で崩れた感覚だけが残った。
その患者は、蘇生してしまった。
だが、目を覚ますことはなかった。脳波はほとんど平坦で、人工呼吸器と点滴に命を預けた状態。俗に言う「スパゲティ症候群」だった。
それからというもの、毎日のようにそのベッドを巡って奇妙なことが起こり始めた。
一人で夜勤していると、誰もいないはずの処置室から機械のアラーム音が鳴る。行ってみると、何事もない。けれど、その患者のベッド脇の心電図モニターだけが、数秒前に異常波形を記録していた。
ほかの患者が、妙なことを言い出すようになった。
「隣のベッドの人、夜中ずっと起きてたねえ。あれ、目が開いてたよ」
いや、開いてないはずなのだ。瞼はむしろ、意図的に貼りついたように閉じていた。強引にこじ開けても反応はない。意識が戻っている気配など、影も形もない。
けれどある晩、いつものように巡回していると、その目が開いていた。
機械の光に反射して、濡れたように光っていた。
目が合ったと思った。
いや、こちらを見ていたと、確信している。
その翌朝、患者の容態は急激に悪化し、再び心停止。今度は、蘇生を試みなかった。
死亡診断書には、心不全と記された。
ただ、奇妙なのはそこからだった。
家族が引き取ったあと、何人かのスタッフが同じことを言い始めた。
「あのベッド、空いてるのに、誰か寝てる気がするんだよ」
「処置室に入ると、空気が重い」
「……話しかけられた気がする」
最初は、気のせいだと思っていた。死人が出た直後にはよくある話だ、と。
だがある日、清掃員が駆け込んできて、真っ青な顔でこう言った。
「あのベッド……頭のところ、冷たいんです。寝てたみたいに」
確かめてみた。温度計を当てても、機械のセンサーを使っても、異常なし。けれど、手をかざすと、たしかに冷気を感じた。あれは、「冷たい空気」じゃない。「冷たい存在」だった。
それからは、そのベッドに患者を入れようとすると、理由もなく拒否反応を示す者が続いた。
「ちょっとあそこは……」
「ほかに空いてる部屋、ないですか」
処置室はリフォームされ、ベッドの配置も変わった。
だが、それでも、夜中になると、誰もいないはずの処置室のナースコールが鳴る。
しかも決まって、あのベッドの位置から。
あのとき、強心剤を打ったのは正しかったのか。
蘇生措置というより、むしろ、何かを無理に連れ戻してしまったのではないか。
家族にとっては「動いてくれてありがとう」という結末だったかもしれないが……本当に、あれは“本人”だったのだろうか。
あの目と目が合った瞬間から、ずっと胸の奥に残っている違和感がある。
こちらを見ていた何かは……あれは、本当に戻ってきた“彼”だったのだろうか?
……あれは、何だったんだ?