069 師匠シリーズ「喫茶店の話」
師匠の部屋のドアを開けるなり俺は言った。
「い、いました。いました。いましたよ」
師匠は寝起きのような顔で床に広げた新聞を読んでいたが、めんどくさそうに視線を上げる。
「まあ落ち着け。なにがいたんだ。……その前にドア閉めて。さむい」
急いで来たので身体が温まっている今の俺には感じないが、今日はかなり冷え込んでいるらしい。
「いたんですよ」
靴を脱ぎドアを閉めた俺は、師匠の前に滑り込むように座った。
「なにが」
「愛想の悪いウエイトレスが」
「へえ、そう」
師匠はまた目を落とし、新聞紙を一枚めくる。
俺は目の前の人間が、どうしてこんなに落ち着いていられるのか分からず、苛立ちが足から頭まで駆け回るのを抑えられなかった。
「へえ、そうって、冷静な振りしても無駄ですよ」
後から考えると、かなり無茶なことを言っていたが、伝えたつもりの情報と、相手に伝わった情報の、格差のことを考えるゆとりがなかったのも事実だった。
「京介さんのバイト先、見つけたんですよ」
「なに?」
師匠が顔を突き出す。そして、「どこだ」と言いながら新聞を畳む。
「だから、喫茶店です。ウエイトレスを……」
説明も半ばで師匠は凄い勢いで立ち上がり、その場でぐるぐる歩き回り始めた。
「喫茶店と言ったね。どこだ。入ったのか?」
俺はついさっきあったことを説明する。
美味いという評判のラーメン屋を探して街なかを歩いている時に、通り掛かった喫茶店の前で、京介さんらしき人を見つけたのだ。
思わず身を隠してそちらを伺うと、店の入り口のそばに置いてある観葉植物に、水を遣っているところだった。
それも、普段見たことのないスカート姿に、白い前掛けをしている。
フリーターをしている京介さんのバイト先は二つあるらしいのだが、どちらも教えてくれなかった。
知ったからといって、別に嫌がらせをしに行くわけでもなし、なぜ教えてくれないのか分からなかったが、ずっと気になっていた。
その現場をついに押さえてしまったのだ。
俺はドキドキしながら電信柱の影から様子を見ていると、出入り口のドアが開き、中から客らしき中年の男性が出てきた。
男性は外でジョウロを持っている京介さんに、片手を上げて声を掛けた。
京介さんはほんのわずか、そうと言われないと分からない程度に頭を下げて、ボソリと返事をする。
男性は苦笑するような表情を浮かべて去っていった。
やがて京介さんが店の中に消えると、俺はとんでもない秘密を見つけてしまったような気がして、逸る気持ちを抑えきれずに、師匠の家まで飛んで来たのだった。
そんなことを身振り手振りで説明すると、師匠は目を輝かせて言った。
「僕は子どものころから、こう言われて育ったんだ。
『どんなことでも一生懸命やりなさい。人の嫌がるようなことを進んでやりなさい』ってね」
そこで言葉を切り、迷いのない爽やかな笑顔を浮かべる。
「行くぞ。嫌がらせをしに」
これか。
俺はその瞬間にすべてが分かってしまった。
師匠は急に跳ね上がった異様なテンションのまま、部屋の中を這いずり始めた。
なにをしているのかと見ている俺の前で、座布団をめくったり、部屋の隅の古新聞の束をどかしたりと、忙しなく動いている。
そして、台所に置いてあった紙で出来た家を取り上げて覗き込み、吐き捨てるようにこう言った。
「こんな時に限っていないなんて!」
俺はそれを聞いて尻の座りが悪くなった。
畳を叩いて悔しがっていた師匠だが、外から雨音が聞こえ始めたのきっかけに、何ごとか悪巧みを練るような顔をしていたかと思うと、押入れに首を突っ込んだ。
俺は窓辺に立ち、「ええー。傘持ってきてねぇよ」と呟く。
けれど、せっかく水を遣ったのに京介さんも間が悪いな、と思うと少し微笑ましかった。
「どうだ、まだ降りそうか」
師匠が押入れからなにかけったいなものを取り出してきてそう言う。
「さあ、たぶん」
ふん、と頷くと、それを身に着け始める。藁で出来た身体を覆う服。
蓑だ。それに笠。
いつの時代の人かと思うような奇態な格好だ。
「いいかい。僕はその店に入るなりこれを脱ぐ。それで、ビショビショのこれを掛ける場所を店内に探す。
そしたらやっこさんが、『困りますお客様』ってやって来るから、おまえは、『この店は雨具を掛ける場所もないのか』って怒鳴るんだ」
「嫌です」
「そうか。では、一人で演ずるとしよう」
テキパキと蓑笠を身に着け終った師匠は、踊り出さんばかりの足取りでドアに向かう。
「あ、僕の傘、使っていいから」
俺は、この人を止めるべきか、一緒に楽しむべきか、判断に迷いながら部屋を出た。
その店は繁華街から少し外れた場所にあった。
薄汚れた雑居ビルが立ち並ぶ一角で、雨の中にあるとその周囲はすべて灰色のモノトーンに包まれているようだった。
空は一層暗くなり、雨はまだ降り続きそうな気配だ。
俺は傘を持っていない方の手で、その三階建てのビルを指差す。
後ろに立っている人物が頷く。
蓑と笠の風変わりな出で立ちに、通り掛かった人が遠慮がちな視線を向けてくる。
どうぞ見てください。それではっきり言ってやって下さい。おかしいって。
雨脚が強くなった。
ズボンの足元が濡れて来て、嫌な感触が広がり始める。
なんでもいいから早く入ろうと足を速めた時、隣の師匠がハッとしたように動きを止めた。
喫茶店はもう目と鼻の先だ。どうしたんだろうと師匠を伺うと、その顔つきが変わっている。
上ずったような熱気が急に冷めたようだった。
「どうしたんです」
そう問い掛けるのもためらわれるような変化だった。
師匠は喫茶店の店構えを見つめ、それからビル全体を眺める。つられて俺も傘を上げた。
なんの変哲もない雑居ビルだ。
喫茶店は『ボストン』という名前らしく、入り口にそんな看板があった。
すりガラスが嵌っているドアからは、中の様子が伺えない。
小さな窓はあったが、内側に帆船の模型のようなものが飾ってあって、同じく中は見えない。
ビルの二階の窓には、消費者金融の名前が出ている。
そして三階には、なんとか調査事務所という控えめな看板が掛かっていた。
「ここなのか」
師匠は呟くように言った。
ゆるやかな円錐形をした笠の縁から、雨が流れ落ちていく。
その流れの向こうに、深く沈んだような瞳があった。
俺は何も言えずに、二人並んで降りしきる雨の中にずっと佇んでいた。
まだ訊けない、重い過去への扉が、その向こうにあるような気がした。
070 師匠シリーズ「賭け」
大学三回生の春。
すでに大学のあらゆる講義に出席する気を失っていた俺は、それまで以上にバイトとギャンブルを生活の中心に据えていった。
ギャンブルと言っても、競艇や競輪などのオッサン向けのものではない。
それらよりも情報を得やすく、学生仲間の関心も高かった競馬。そして手軽に出来る麻雀やパチンコだ。
特にパチンコは、イベントのある日に何故か風邪を引いて、バイトを急遽休まざるを得なくなるという、実にハタ迷惑な体質を発揮して、バイト仲間に見つからないように、コソコソと通ったりしたものだった。
ある日、足が遠ざかりつつあったオカルト道の師匠に道端で会った。駅の近くの路上だった。
夕方。駅前で油ソバを腹に入れ、さあこれからもうひと勝負とやる気が湧いてきた時だ。
「初任給が出たよ」と嬉しそうに話す師匠を、気がつくと悪の道に誘ってしまっていた。
「増やしましょう、それを」
有史以来、人類が絶えることなく選択を誤り続けた賭けである。
師匠は最初固辞していたが、俺が札束の詰まった財布を見せると興味を示してきた。
そのころ俺はやけにツイていて、かなりの泡銭を抱えていたのだ。
それまでも何度か師匠をパチンコ屋に誘ったことはあったが、取り合ってくれたことはなかった。
それが急に乗り気になったということは、儲け話に乗ったということだと単純に解釈したのだが、その複雑な表情からすると、なにか別の考えがあってのことかも知れなかった。
ともかく、師匠が一緒に来てくれるというので俺は嬉しくなり、とっておきの店に案内した。
駅前からは少し離れるけれど、かなりの設置台数を誇る大型店で、その同じチェーン店の中でも、優良店として知られる店だった。
まったくの初心者である師匠に、三店方式の仕組みなどを説明しながら歩くこと十分。
荘厳さすら漂わせる城のような店構えに、「儲け過ぎだろう」と眉間に皺を寄せるので、それでも競馬やら宝くじなんかの公営ギャンブルに比べて控除率が低く、立ち回り次第で勝てる可能性が高いのだと必死で説得すると、「わかったわかった」と、煩そうに入り口へ足を向けてくれた。
自動ドアが開くと、独特の騒音が耳に襲い掛かってくる。
俺などはこれを聞くと、得体の知れない闘志が湧いてくるのだが、師匠は不快そうに顔を歪めた。
フロアをしばらく眺めて、カウンターでレシートを交換する客や、ジェットカウンターの様子を見ながら一通り説明をして、俺は師匠をあるコーナーへと誘った。
パチスロのシマだ。
「パチンコじゃないのか」と言うので、「今はこっちが熱いんス」と親指を立てる。
元々パチンコからこの道に入った俺だったが、そのころはパチスロばかり打っていた。
規制緩和だかなんだか知らないが、調子が良い時は、一万枚を超えるメダルを獲得できる機種が増えて来たころだった。
メダル一枚二十円の等価交換なら、一日にして二十万円を手に入れることになる。俺の泡銭もその恩恵だった。
中でも古代アステカ文明をモチーフにした台がお気に入りで、それが並んでいるシマを師匠を連れてうろうろしていたのだが、思いのほか客付きが良くて、二人並んでは座れない状態だった。
席が離れてしまって素人の師匠一人に打たせるわけにもいかないので、しばらく待っていたが、なかなか空きそうにない。
歯抜けのように一つ飛びに空いている席はあるけれど、その周囲の客はみんな習ったように千円札の束をメダル投入口に挟んでいて、まだまだ打つ気十分のようだった。
「これが熱いんスけど、空きませんねえ」と俺がぼやくと、師匠はなにを思ったか、ツカツカと歯抜けの真ん中で打っている客の所へ歩み寄っていった。
そして何ごとかその客に話し掛け、一言二言やりとりをしていたが、いきなりそのスカジャンを着た若い兄ちゃんにドツかれて、後ろへ転びそうになった。
台に向き直ってゲームを続ける兄ちゃんに、なにか捨て台詞を吐いてから師匠が戻って来る。憤然としている。
「そっちに詰めてくれって言ったら怒られた」
俺は吹いた。
素人の発想は凄い。俺だったら絶対思いつかない。
「ちゃんと詰めて座れば、二人連れの人でも座れるのに。マナーがなってない」と、ぶつぶつ言っている師匠を宥める。
「パチスロには設定というものがあって」と説明をしていると、端の台が二台続けて空いた。
すぐに飛んで行って台を確保する。
「じゃあ打ちましょう」
正直どっちの台もあまり良い台とは言えなかったが、一応師匠にまだマシな方をあてがって実戦を開始した。
最初の千円で師匠は殆ど小役が揃わず、あっという間に交換した五十枚のメダルが無くなる。
「無くなったぞ」
「そうですね。これからですよ」
「そうか」
二人並んでペチペチとストップボタンを押していく。
「また無くなったぞ」
「そうですね」
いちいちうるせぇなと思いながら、回っているリールのどの辺を狙ってボタンを押せば良いか説明していると、俺の台の方にリーチ目が出現した。
指をさして、白い7の絵柄が二つ重なっていることを興奮気味に捲くし立てる。
今度は師匠の方がうるせぇなという顔をした。
俺はじっくりともったいぶって一枚だけメダルを投入し、真ん中、右、左の順番にボタンを押して、青い7絵柄を揃えた。BIGボーナスだ。
派手なBGMとともにジャラジャラと下皿にこぼれ落ちてくるメダルを、師匠が横目で羨ましそうに見ている。
三百枚ほど出たところでボーナスが終わり、さらにメダルを二百枚以上獲得することの出来る、CTというオマケに突入するかどうかの分かれ目となる、抽選ルーレットがすぐさま始まった。
突入確率は二分の一だ。俺は祈りを込めて、リール下部のLEDの高速移動を追いかける。
CTに突入してからのボーナス連荘がこの台のキモであり、メダル大量獲得の起爆剤なのだ。
だが俺の願いも空しく、ルーレットはハズレゾーンで停止し、台の音は消えた。
順押しサボテン維持という技を師匠に見せたかったのにと肩を落とすと、その師匠は隣でプッと笑った。
なにも知らなくても、なにか駄目だったらしいというのが分かったようだ。
一発台を殴ってから続行する。
それから二人の台はいたって静かなもので、全く当たりそうな気配がなかった。
一万円を溶かしてしまった師匠がだんだんと不機嫌になってきて、他の台をキョロキョロと見始める。
「あっちの台、900回も回してる。そろそろ出るころじゃないか。移ろうかな」
データカウンターを見上げてそう言うのだ。
俺はその瞬間に頭に浮かんだ言葉に、思わず吹き出しそうになる。
そして笑いをこらえながら師匠に耳打ちする。
「そういうの、オカルトっていうんですよ」
師匠はきょとんとしている。なんだかとてもおかしい。
結局二人ともそれから一度も当たらず、それぞれ二万円以上負けてしまった。
最初は自分の負けに腹を立てていたが、やがて師匠に申し訳ないことをしたという気持ちが湧いてきて、店を出た所で頭を下げた。
「まあ別にいいよ。勉強になったし」
やけに殊勝だ。
「それより……」と、急に真剣な顔になって声を落とす。
「別の台で、2000回も回して当たってなかったのがあったんだけど、あれはどのくらい負けてるんだ」
ざっと計算する。
「七万円くらいです」
その台は俺も気になっていて、帰る前にデータカウンターをチェックしたが、一日単位でも酷い下向きグラフになっていた。
ざっと十二,三万円は負けているだろう。それを説明する。
「ずっと負けが続いて、借金漬けになっているような人間には……命に届く額だな」
冷酷な口調で師匠は言った。
「最近勝ってるらしいけど、それだけ勝てるってことは、それ以上に負けてる人間がいるってことだな」
当然のことだが、パチンコ・パチスロにのめり込んでいる俺たちのような人間は、しばしば都合よくそれを忘れてしまう。
愉快ではない部分を突かれて俺は黙った。
「ギャンブル性が上がって、ハイリスク・ハイリターンになればなるほど、客単価があがって得をするのは店側じゃないか。
その分、客が割りを喰ってるんだろう。バカバカしいじゃないか」
言われなくても分かってる。いや、分かっているつもりだった。
それでも一度大金を掴んでしまうと、また勝てるような気になってしまうのだ。
夜風に吹かれながら店の外を歩いていると、師匠が急に辺りを伺う様な気配を見せ、早足で来た道と逆方向に進みだした。
なにかを感じ取ったらしい。
店の裏手側で、普段は殆ど人も通らないような小道があるだけのはず。
けれど師匠はなにかに導かれるように、そちらへ迷うことなく向かう。
暗い。そばを通る立体交差道路の影になっていて、いっそう暗さを感じる一角だ。
師匠はその中ほどで地面を見下ろし、立ち止まる。
俺も並んで、その道路の一点を見る。
暗くてよく分からないが、黒い染みがアスファルトにこびりついているようだ。
俺はハッとして頭上に目をやる。城壁のような店の外壁が視界を覆い、その上は夜空で途切れている。
あの上は確か駐車場の屋上だ。
いつだったか、つい最近飛び降り自殺をした人の噂を聞いた。
店で負けた客が、まだ午前中だというのに、屋上からこの狭い道路に身を投げて死んだと。
ここがその現場か。この染みは、未だ取れない血なのだろうか。
嫌なものを見てしまった俺は、心がズンと重くなった気がした。
「死を選ぶということは、賭けだ」
師匠がこちらを向く。
「借金でどんなに首が回らなかろうが、死んでしまえばその苦しみから開放されるはず、という無意識の賭け」
「賭け」
オウムのように復唱する。
「そんな人間は、天国やあの世と呼ばれるようなところに、行きたいと思って死ぬのだろうか」
少し考える。違うような気がする。
「パスカルの賭けという言葉がある」と師匠は言った。
神が存在している方に賭けるべきか、存在していない方に賭けるべきか、という問いに対して、科学者としても名高いフランス人、パスカルはこう答える。
神の存在に賭ければ、勝った時に得られる祝福という名の喜びは無限大であり、負けた場合、すなわち死後が虚無であったとしても、それは誰にも等しく訪れる運命である。
それに対し、神の非存在に賭けたなら、勝利とはすなわち死後の虚無を認めることであり、敗北とは、祝福という名の喜びを放棄することに他ならない。
神の存在に賭け、その意に適うような生き方をすることは、苦痛であるかも知れないが、勝てばそれを補って余りある幸福を得られ、例え負けてもその苦痛は消滅する。
非存在に賭け、現世の利益だけを追求したとするなら、勝ってもその利益は虚無の中へ消え、負ければ祝福という永遠の幸福を失う。
だから神の存在に賭けるべきだと。
これを聞いて、科学者らしい合理性だなと俺は感じた。
「『生き方』としては、その賭け方が正しいかも知れない。でも『死に方』としては、どうだろうか」
パスカルの言う神とは、もちろんキリスト教のそれだろう。
自殺を認めていない宗教なのだから、本来その問い自体がナンセンスのような気がする。
「『神』は、『死後の世界』と置き換えてもいいだろう。
苦しみからの開放という目的のための自殺は、賭けとして合理的か否か」
その問いかけに、さっき師匠自身が言いかけた、『そんな人間は、天国やあの世と呼ばれるようなところに行きたいと思って死ぬのだろうか』
という言葉が頭にリフレインされる。
すると師匠も、まさにその言葉を繰り返した。
そして少し間をあけてから続ける。
「死への欲動は、もっと奥深いところからやって来ていると思う。
それは、あの世に対するイメージが植えつけられる、宗教観や固有文化という背景よりも、もっとずっと深い場所だ」
「それはどこですか」
思わず問いかける。
師匠は口を開く。
「僕らの記憶が始まる前の、真っ暗闇の中からさ」
……
その言葉を聞いて、なぜか三半規管が一瞬機能を失ったような感覚があった。
「つまり、自殺するってことは、死後の世界を求めているんじゃなく、消滅を求めているってことですか」
極論だとその時は感じなかった。毎度毎度よく師匠の術中に陥るものだと後にして思う。
「そうだ。だからさっきの問いは、『消滅を求めての自殺は、賭けとして合理的か否か』に置き換えられる」
その時。俺の目は、師匠の背後にいつの間にか現れた、青白いものをとらえていた。
俺と向き合っている師匠の後ろには、薄暗い夜の道が延びている以外なにもないはずだったのに、明らかになにかゆらゆらと揺らめくものが存在している。
それが背中越しに見え隠れする。
心臓が冷たくなる。
心を不安にさせる気味の悪い耳鳴りが、頭の内側に響き始める。
師匠の後ろには、アスファルトの染みがあったはず。かすかに人型をしていたような染みが。
こちらを見ている師匠の耳の後ろに、うっすらとした男の顔が奇妙に歪んだままで揺れながら、ちらりと覗いた。
消滅を求めての自殺は、賭けとして合理的か否かなんて、理屈を捏ね回して考える必要なんてなかった。
俺が見ているものが、賭けの結果そのものだからだ。
その中年男性に見える青白い顔はしかし、子どもが泣いているような表情を浮かべている。
まるで凍りついたように。
そのアンバランスさがどうしようもなく冒涜的なものに思えて、恐怖心とともに生理的嫌悪感に襲われる。
師匠は後ろを振り返らない。気づいていないはずはないのに。
また口を開く。
「僕たちはその問いの答えを、損得の理論によって導き出そうとはしない。
何故なら、観察の結果がそれに代替するからだ」
師匠の顔の後ろに泣き顔の男の顔が、凍りついたままで頼りなく揺れている。
「でも僕たちは、その観察の結果を正しく理解しているのだろうか」
気づいていないはずはないのに。師匠は静かに言葉を紡ぐ。
俺はその声を、息をひそめて聴いている。
「最近、僕は疑うようになっている。
『あれ』らは、僕たちが思うような、『僕らが死んだあとの続き』なんかではなく、僕らの想像の及ばない場所から、僕らのような姿形をしてやってくる、まったく別のなにかなのではないかと」
淡々とした声が、風のない夜の空気に溶けていく。
その言葉は、いま目に映っている青白く虚ろなものに感じるよりも遥かに深い、原初的な恐怖心の眠る場所を撫でていった。
(了)
マンガ・アニメ都市伝説 [ 山口敏太郎 ]