「彼女」は、笑っていた。
部屋の電気をつけた覚えはない。それなのに、帰宅した自分のアパートの一室から、柔らかい光が漏れていた。三階の端、毎日見ているはずの窓の明るさが、その夜だけは妙に現実味を失って見えた。
鍵は、確かに掛けて出た。
そう思いながらドアに近づくと、内側から人の気配がした。
震える手で鍵を回した瞬間、ドアチェーンが内側から引かれ、金属音が鳴った。
中にいたのは、知らない女子中学生が四人。どこかの家のリビングにいるかのように、床に座り、菓子袋を散らし、テレビを眺めていた。
「……ここ、私の部屋なんだけど」
眼鏡の子がきょとんと顔を上げて言った。
「あれ、さっちん?」
知らない。
誰の名前だ、それは。
彼女たちは悪びれもしなかった。「チャットで友達になったじゃないですか」「泊めていいって言ってたし」と、口々に言う。その最後に、全員が同じ言葉を添えた。
「みぽりんさんが、いいって」
その名前を聞いた瞬間、心臓が一拍遅れて強く打った。
彼女は、チャットで知り合った社会人だった。落ち着いていて、礼儀正しく、公務員だと言っていた。自分の拙い文章を丁寧に褒め、心配してくれる、いわゆる「いい人」だった。
その夜、彼女は女子中学生たちを連れて現れた。
「困ってる子たちだったから。少し泊めてあげただけよ」
まるで当然のことのように言った。
実家にも話しておいたとも言った。後で母に電話すると、母は安心しきった声で言った。「ちゃんとしたお友達ができてよかったわね」
その「ちゃんとした人」が、台所にスーパーの袋を広げたとき、背中に冷たいものが走った。
袋の中には、牛、豚、鶏。量だけで言えば、鍋一杯どころではなかった。
その晩、鍋で肉を煮込みながら、背後で咀嚼音が重なっていた。
彼女は一リットルの牛乳をラッパ飲みしながら、鍋の中身の大半を食べた。早くも遅くもない、一定の速度で。
人間の食事に見えなかった。
皿を洗っていると、玄関の向こうで音がした。
外に追い出したはずの中学生たちが、泣きながらドアを引っかいていた。
「……寒い……」
彼女は振り返りもせずに言った。
「今はだめ」
それだけで、泣き声は遠ざかった。
警察を呼んだ。
事情を説明しようとしたが、彼女が間に入った。
「私が保護者です。行き場がなくて」
穏やかな声だった。警官は頷き、こちらを一度も見ずに言った。
「最近多いんですよ。善意のケース」
善意。
その言葉だけが、部屋に残った。
翌朝、冷蔵庫を開けると、見覚えのない肉が増えていた。
ラップに包まれ、きれいに整えられている。
「足りなかったから」
彼女はそう言って微笑んだ。
その日の夜も、鍋は火にかけられた。
彼女はまた牛乳を飲み、肉を食べた。噛む音が規則正しく、まるで時計のようだった。
「……なんで、こんなことするの」
思わず聞いてしまった。
彼女は少し考えるように首を傾げてから言った。
「あなた、いい人でしょう」
それが理由だと言わんばかりに。
「いい人って、信じられやすいのよ。だから安心する。疑わない」
その言葉が、刃物のように静かだった。
夜、友人が来ると言って電話をくれた。
合図のノックも決めた。
その音がしたとき、ほっとしてチェーンを外した。
ドアの向こうにいたのは、彼女だった。
「教えてくれたのよ。あなたの友達」
床に置かれたスーパー袋から、また肉の匂いが広がった。
「今夜も、いてあげる」
逃げ場はなかった。
鍋に肉を入れながら、吐き気がこみ上げた。
彼女は牛乳のパックを破り、口をつけた。
「誰も、あなたの話なんて信じないわ」
そう言って、生肉を顔に押し当てた。
冷たく、ぬるりとしていた。
そのとき、再びドアが叩かれた。
今度こそ、友人だった。
叫び声と同時にドアが開き、友人が飛び込んできた。
彼女は一瞬だけ、無表情になった。
「……人が、せっかく遠ざけたのに」
そう言って、床に骨の残骸を投げ捨て、去っていった。
それ以来、彼女は来ていない。
けれど、冷蔵庫を開けると、肉がある。
買った覚えはない。
鍋の底に、洗っても落ちない脂が残っている。
チャットの履歴に、短い一文が増えていた。
「いいって言ったでしょう」
今日も、どこかの部屋で、
彼女はきっと笑っている。
[出典:58 :えすじい ◆AC/DC78UDA :2010/01/23(土) 13:48:40.43 ID:+aKZqCMO0]