これは、都内の小さな居酒屋で起きた出来事を、常連客の一人から聞いた話だ。
その居酒屋は、十数席ほどのカウンターがメインのこぢんまりとした店で、夕方になると仕事帰りのサラリーマンや近所の住人が集まっては、静かに酒を楽しむ場所だった。五年ほど前、その店には変わった男が常連として通っていたという。
中年の男。スーツ姿で身なりはいつも清潔だった。頼むものも決まっていて、焼き鳥を数本と瓶ビールを一杯。それを一時間ほどで済ませると、ほとんど会話もなく店を去る。
男は客とも、店主とも親しく話すことはなかった。ただ静かに酒を飲み、黙々と過ごしていた。隣の席になった客が話しかけても、返事はなく、どこか壁を隔てるような雰囲気があった。無口で、人付き合いを嫌うタイプの男だと、他の常連たちもなんとなく距離を取っていた。
しかし、ある夜、その男が初めて感情を露わにする場面があった。
その日、いつものように静かに飲んでいた男が、後から入ってきた別の常連客を見た瞬間、突如として怒鳴り声を上げたのだ。「今すぐ家に帰れ! 女房を病院に連れていけ!」と。
その声は店内の全員を驚かせた。普段寡黙な男が、突然怒気を込めた声を発したのだ。怒鳴られた常連客も最初は困惑し、男に「何の冗談だ?」と取り合わなかった。だが、男はなおも食い下がり、まるで懇願するように訴え続けた。その様子は尋常ではなかった。
声が大きくなるにつれ、店の空気が張り詰めた。店主が割って入り、場を収めようとしたものの、何か不気味な違和感が店中に漂っていた。ついには周囲の客も「なんだか嫌な感じがする」と呟き始め、説得の末、その常連客は渋々店を後にした。
後日、その常連客から話を聞いたところ、店を出た後、家に帰って電話をすると、妻が体調を崩して早く横になっていたという。どうやら軽いめまいを感じていたらしい。それでも妙な胸騒ぎが収まらず、常連客は妻を連れて病院に向かった。
病院で症状を説明すると、医師たちの顔色が変わったという。すぐに検査が行われ、そして緊急手術。診断は「くも膜下出血」。そのまま放置していれば、命を落としていただろうと医師は告げた。手術は成功し、妻は幸運にも後遺症なく回復したという。
あの男がその夜言った言葉がなければ、妻は助からなかったのかもしれない。
しかし、あの男はそれ以来店に現れなくなった。店主が言うには、「きっと何か特殊な感覚――予知のような能力がある人だったのだろう」と。
だが、それは本人にとって必ずしも幸福な力ではなかったのかもしれない。その能力ゆえに、過去に何かを失ったのだろうと店主は推測する。「いつもどこか疲れた目をしていたからね」と。
無口であったのも、詮索を避けるためだったのかもしれない。だが、あの夜ばかりは、それでも目の前の常連客の不幸を見過ごすことができなかった――そう店主は語った。
あの男の素性も、どうしてあの居酒屋に通っていたのかも、今となってはわからない。ただひとつ確かなのは、あの男がいなければ、救われなかった命があったということだけだ。
この話をするたびに、居酒屋の常連たちは顔を見合わせる。
そして誰もが、二度と戻らなかったあの男の沈黙を、どこかしら怖れながらも感謝するのだという。
[出典:647 本当にあった怖い名無し 2011/07/10(日) 22:05:40.24 ID:crYVykSK0]