私はいま、夫と子どもと一緒に地元の集落に暮らしている。
山と田畑に囲まれた、夏には蛙と蝉の声しか聞こえない、そんな土地だ。
都会から移住してきた人たちがよく言う。「星がすごいね」と。
私にとっては当たり前すぎて、そうだったかな?と曖昧に返すしかない。
けれどここには、もっとよく“見える”ものがある。
そう、あの婆ちゃんのことだ。
名前は知らない。ただ皆から「よく見える婆ちゃん」と呼ばれていた。
小柄で背中の丸い、色あせた前掛けをつけたお婆さんだった。
麦わら帽子をかぶって、腰を曲げたまま農作業をしているのを、私は子どもの頃から何度も見ている。
にこりともしない顔が、なぜかいつも優しく思えた。
婆ちゃんは、何かを当てる人だった。未来でも過去でもなく、「今」あることを、だ。
たとえば、ある日、近所の子どもがいなくなった。まだ六つくらいだった。
親御さんは大騒ぎで、警察に連絡して、山の中を皆で探した。
でも婆ちゃんは、ぽつんとこう言ったそうだ。
「〇〇の町に、田代んとこの孫とおる。〇日、朝帰る」
〇〇って、電車を乗り継がなきゃ行けない都市だ。子どもがどうやって?と思った。
でも実際、その日その朝に、田代の孫と一緒に連れて帰られた。
本人は、行った記憶が曖昧だと言っていた。
見た大人はいない。けれど、そうなった。
婆ちゃんは、人の病気も見えた。
△△さんの奥さんに「腹に病気がある」と言ったときも、誰も信じなかった。
なんせ、あの人は太ってて、血色も良くて、いつも笑っていたから。
でも病院に行ったら、悪性の腫瘍が見つかった。
命に関わるものだった。
あれがなかったら、いま笑っていないかもしれない。
他にもある。
「〇〇の家は、この盆は川に行け。山はやめろ」
逆だろう、とみんな笑った。普通は山のほうが安全だ。
でも〇〇さん家は、山で遊んでいた最中に、お子さんを一人失った。
それでも婆ちゃんは金を取らない。
祈祷も除霊もやらない。ただ言うだけ。
「塩を引け。葬式のあと、余計なもんが家に入ってくる。家族は帰ってくるが、そうじゃないのもくっついてくる」
そう言って、家に入る前に塩を撒けとだけ教えていた。
だからうちでは、葬式に行ったあと必ず塩を使う。
浄土真宗が多い地域だから、本来なら清め塩はしない。でも私の家ではする。
新しく越してきた人たちは、それを知らずに入ってくる。
悪いけど、何度か不幸が起きて……それからは近所の年寄りたちも黙って塩をまくようになった。
「こっちは安泰だけど、向こうは不幸が多いな」と、そんな声も聞こえるようになった。
私は、あの婆ちゃんに助けられたことがある。
まだ独身だった頃の話。
都会の会社で働いてて、好きな人がいた。背が高くて、優しくて、でもぜんぜん振り向いてくれなかった。
休みで帰省したとき、婆ちゃんにぽろっと話した。
「その男は△△の次男じゃな」
……当たってた。親にも友達にも話してないのに。
「その男は無理だ。おまえには無理。好きな女がおる。一途な男」
また、当たってた。
彼は職場の先輩に片思いしてた。大学の頃からずっとだったらしい。
私は何もできないまま、泣いてた。そしたら婆ちゃんが、
「しかたないな。おまえは強情だから何とかしてやる。一度だけじゃ。〇日の夜、△△に行け」
その日、たまたま彼に呼び出された。話があると言われて。
先輩にフラれたらしくて、ぽつんと泣いていた。
そこで話をして、何度も会うようになって……今は、夫だ。
子どももいる。
でも、不思議だったのはそこからだった。
婆ちゃんは、それきり私の名前を呼ばなくなった。
姿も、だんだん見なくなっていった。
噂では、ある時期を境に、人との会話をやめたらしい。
話しかけても、うんともすんとも言わないのだと。
何かが“抜けた”のか、それとも“抜いた”のか。
あれが“最後”だったんだろうか。私が。
そういえば、中学生の頃にも奇妙な場面を見たことがある。
集落に、知らない女性がふらっとやってきた。
婆ちゃんの家の前を通ったとき、突然立ち止まって、
「〇〇の末っ子じゃろ。子どものところに帰れ」って言った。
その女性、ぎょっとした顔をして……次の瞬間、泣き出した。
母たちが駆け寄って、家に上げて、お茶を出して落ち着かせた。
その人、数年前に子どもを置いて出ていったらしい。
誰にも言ってなかった。でも、当てられた。
「旦那に頼まれたのか、親に頼まれたのか」
と怒っていたけど、ここはその人の地元じゃないし、婆ちゃんもその人とは面識がない。
関わる理由もない。
でも、見えたんだろう。
婆ちゃんがテレビに出れば、って話もあった。
けれど、本人は乗らなかった。
「おまえが行け」「おまえが話をつけろ」と言い合って、結局流れたらしい。
田舎者だから、って笑ってた人もいたけど……
婆ちゃんがテレビを見て、ふっと手を合わせることがあった。
そんなときは、もう手遅れなんだと、母が言っていた。
もう婆ちゃんはいない。
何年か前に、ひっそりと亡くなったと聞いた。
葬式にも呼ばれなかった。
けれど、私は帰省のたびに、あの道を通る。
婆ちゃんの家の前を。
そこには、誰も住んでいないはずの家が、静かに建っている。
誰もいないはずの畑の隅で、小さな影が、腰を曲げて何かをしている気がする。
……誰もいないと、思っているだけなのかもしれない。
[出典:538 :可愛い奥様:2012/08/09(木) 03:09:04.79 ID:w5Uy35ag0]