大学四年の夏、就職先が決まった。
友人たちは卒業旅行だ、合宿だと騒いでいたが、私は急に空いた時間をうまく使えなかった。予定のない日が続くと、何かを損しているような気がして、ふと思い立って母方の祖父を訪ねることにした。
祖父の家は山の奥にあった。国道から外れ、細い道を何度も折れ、最後は車一台がやっと通れる坂を上がる。夜になると街灯はない。窓の外に見えるのは、山の輪郭と、そこへ吸い込まれていく黒い空だけだった。
家は古かった。茅葺きの屋根はトタンで覆われていたが、梁は太く、畳は歩くたびに低く鳴った。湿った木と古い土の匂いがして、私は子供のころからそれを田舎の匂いだと思っていた。
奥の座敷に、木彫りの面が掛けられている。
能面のようにも見えるが、もっと荒い。左右の目の深さが違い、口だけが少し開いている。笑っているわけでも、怒っているわけでもない。ただ、何かを吸い込む途中で止まったような顔だった。
親戚はみんな、それを「面さん」と呼んでいた。
守り神だと聞かされていた。だが、夜になると壁から外れて家の中を歩くとも聞いた。誰に聞いても、冗談のように笑うか、途端に黙るかのどちらかだった。
夕食のとき、私は祖父に聞いた。
「あの面、まだ動くの」
祖父は味噌汁をすすり、少しだけ笑った。
「わしは、あの部屋では寝んからな」
「怖いから?」
「いいや。あそこは、面さんの部屋じゃ」
それきり祖父は何も言わなかった。
私はその夜、わざと奥の座敷で寝ることにした。怖がっていると思われるのが嫌だったし、半分は面白がってもいた。祖父は止めなかった。ただ、布団を敷き、枕元に小さな電気スタンドを置いて、襖を閉めた。
座敷は静かだった。
面さんは壁に掛かったまま、薄い灯りを受けていた。私は布団の中でスマートフォンを見ていたが、何度も顔を上げてしまった。そのたびに、面の位置が少し下がっているような気がした。
もちろん気のせいだと思った。
午前二時を過ぎたころ、腹が痛くなった。
夕食に食べた山菜か煮物が合わなかったのだろう。私は布団を抜け出し、廊下へ出た。古い家なのに、トイレだけは新しくなっていた。白い壁と明るい電球が、そこだけ別の家のように見えた。
便座に座ってしばらくすると、ドアが鳴った。
かた、かた。
最初は風だと思った。けれど音はやまず、今度は小さく叩く音に変わった。
こつ。
こつ。
人差し指の関節で、遠慮がちに叩くような音だった。
私は息を止めた。
誰かいるのか、と聞こうとしたが、声が出なかった。かわりに、湿った土を掘り返したような匂いが流れ込んできた。子供のころ、田舎の匂いだと思っていたものに似ていた。ただ、ずっと濃かった。
背中側の小窓が、きい、と鳴った。
振り返ると、窓の外に女の顔があった。
白い顔だった。表情はない。目は開いているのに、こちらを見ている感じがしなかった。窓枠の下から腕が一本上がり、ゆっくりと内側へ入ってこようとしていた。
私はトイレの鍵を外し、廊下へ飛び出した。
そこで、面さんとぶつかった。
壁から外れた面が、廊下の真ん中に浮いていた。私は叫ぶ暇もなく、それに顔を覆われた。木の冷たさが額と頬に張りつき、目の前が真っ暗になった。
次に気がついたとき、私は座敷の畳に倒れていた。
枕元に祖父が座っていた。電気スタンドの灯りの下で見る祖父の顔は、いつもよりくぼんで見えた。
「見たか」
私はうなずいた。
祖父は、壁に戻った面さんを見た。
「間に合ったな」
「何が」
「面さんが」
それ以上は言わなかった。
私は女のことを聞こうとした。誰なのか。なぜ窓から入ってきたのか。なぜ祖父は驚かないのか。だが、祖父は私の口元を見て、低い声で言った。
「今夜のことは、外で話すな。話すと、顔を覚えられる」
その言い方が妙に引っかかった。
翌朝、私は帰るつもりで荷物をまとめた。祖父は止めなかった。ただ、玄関先で言った。
「街へ戻るなら戻れ。ただ、鏡はしばらく見るな」
「どういう意味」
祖父は答えなかった。
私は帰った。
就職もした。山の家のことは、しばらく誰にも話さなかった。最初の数日は洗面所の鏡を見るのが怖かったが、忙しくなるにつれて忘れていった。あれは古い家で眠ったせいの夢だった、腹痛で気を失っただけだったと、自分に言い聞かせた。
ただ、ひとつだけ変なことが残った。
証明写真を撮ると、いつも顔が少し違って写る。
目の深さが左右で揃わない。口元がわずかに開いている。撮り直しても同じだった。免許証の更新でそれを見た係員が、何気なく言った。
「珍しい顔ですね。木で彫ったみたいだ」
その年の冬、祖父が亡くなった。
葬儀のために山の家へ戻ると、奥の座敷に親戚が集まっていた。面さんはいつもの壁に掛かっていた。けれど私は、しばらくそれが面だと分からなかった。
祖父の顔に見えたからだ。
葬儀が終わったあと、母が私に言った。
「あんた、昔からあの面に似てたけど、最近ますます似てきたね」
私は笑えなかった。
今、その家には私が住んでいる。
就職先は辞めた。はっきりした理由はない。ただ、街の部屋では眠れなくなった。夜中に窓が鳴ると、体が勝手に起きてしまう。誰かが外から覗いている気がするのだ。
山の家では、よく眠れる。
奥の座敷に布団を敷くこともある。面さんは壁に掛かったままだ。夜中、廊下で何かがすれる音を聞くことはあるが、怖いとは思わなくなった。
たまに客が来ると、必ずあの面の前で足を止める。
「これ、どこかで見た顔ですね」
そう言われるたび、私は「古いものですから」と答える。
最近、洗面所の鏡を見る時間が短くなった。
別に怖いわけではない。
ただ、鏡を見るより、座敷の面を見ているほうが、自分の顔を確かめやすい。
[出典:2015/07/15(水) 13:28:49.72 ID:SVXeXbgn0.net]