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中編 r+ ほんのり怖い話

顔を覚えられる rw+2,335-0618

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大学四年の夏、就職先が決まった。

友人たちは卒業旅行だ、合宿だと騒いでいたが、私は急に空いた時間をうまく使えなかった。予定のない日が続くと、何かを損しているような気がして、ふと思い立って母方の祖父を訪ねることにした。

祖父の家は山の奥にあった。国道から外れ、細い道を何度も折れ、最後は車一台がやっと通れる坂を上がる。夜になると街灯はない。窓の外に見えるのは、山の輪郭と、そこへ吸い込まれていく黒い空だけだった。

家は古かった。茅葺きの屋根はトタンで覆われていたが、梁は太く、畳は歩くたびに低く鳴った。湿った木と古い土の匂いがして、私は子供のころからそれを田舎の匂いだと思っていた。

奥の座敷に、木彫りの面が掛けられている。

能面のようにも見えるが、もっと荒い。左右の目の深さが違い、口だけが少し開いている。笑っているわけでも、怒っているわけでもない。ただ、何かを吸い込む途中で止まったような顔だった。

親戚はみんな、それを「面さん」と呼んでいた。

守り神だと聞かされていた。だが、夜になると壁から外れて家の中を歩くとも聞いた。誰に聞いても、冗談のように笑うか、途端に黙るかのどちらかだった。

夕食のとき、私は祖父に聞いた。

「あの面、まだ動くの」

祖父は味噌汁をすすり、少しだけ笑った。

「わしは、あの部屋では寝んからな」

「怖いから?」

「いいや。あそこは、面さんの部屋じゃ」

それきり祖父は何も言わなかった。

私はその夜、わざと奥の座敷で寝ることにした。怖がっていると思われるのが嫌だったし、半分は面白がってもいた。祖父は止めなかった。ただ、布団を敷き、枕元に小さな電気スタンドを置いて、襖を閉めた。

座敷は静かだった。

面さんは壁に掛かったまま、薄い灯りを受けていた。私は布団の中でスマートフォンを見ていたが、何度も顔を上げてしまった。そのたびに、面の位置が少し下がっているような気がした。

もちろん気のせいだと思った。

午前二時を過ぎたころ、腹が痛くなった。

夕食に食べた山菜か煮物が合わなかったのだろう。私は布団を抜け出し、廊下へ出た。古い家なのに、トイレだけは新しくなっていた。白い壁と明るい電球が、そこだけ別の家のように見えた。

便座に座ってしばらくすると、ドアが鳴った。

かた、かた。

最初は風だと思った。けれど音はやまず、今度は小さく叩く音に変わった。

こつ。

こつ。

人差し指の関節で、遠慮がちに叩くような音だった。

私は息を止めた。

誰かいるのか、と聞こうとしたが、声が出なかった。かわりに、湿った土を掘り返したような匂いが流れ込んできた。子供のころ、田舎の匂いだと思っていたものに似ていた。ただ、ずっと濃かった。

背中側の小窓が、きい、と鳴った。

振り返ると、窓の外に女の顔があった。

白い顔だった。表情はない。目は開いているのに、こちらを見ている感じがしなかった。窓枠の下から腕が一本上がり、ゆっくりと内側へ入ってこようとしていた。

私はトイレの鍵を外し、廊下へ飛び出した。

そこで、面さんとぶつかった。

壁から外れた面が、廊下の真ん中に浮いていた。私は叫ぶ暇もなく、それに顔を覆われた。木の冷たさが額と頬に張りつき、目の前が真っ暗になった。

次に気がついたとき、私は座敷の畳に倒れていた。

枕元に祖父が座っていた。電気スタンドの灯りの下で見る祖父の顔は、いつもよりくぼんで見えた。

「見たか」

私はうなずいた。

祖父は、壁に戻った面さんを見た。

「間に合ったな」

「何が」

「面さんが」

それ以上は言わなかった。

私は女のことを聞こうとした。誰なのか。なぜ窓から入ってきたのか。なぜ祖父は驚かないのか。だが、祖父は私の口元を見て、低い声で言った。

「今夜のことは、外で話すな。話すと、顔を覚えられる」

その言い方が妙に引っかかった。

翌朝、私は帰るつもりで荷物をまとめた。祖父は止めなかった。ただ、玄関先で言った。

「街へ戻るなら戻れ。ただ、鏡はしばらく見るな」

「どういう意味」

祖父は答えなかった。

私は帰った。

就職もした。山の家のことは、しばらく誰にも話さなかった。最初の数日は洗面所の鏡を見るのが怖かったが、忙しくなるにつれて忘れていった。あれは古い家で眠ったせいの夢だった、腹痛で気を失っただけだったと、自分に言い聞かせた。

ただ、ひとつだけ変なことが残った。

証明写真を撮ると、いつも顔が少し違って写る。

目の深さが左右で揃わない。口元がわずかに開いている。撮り直しても同じだった。免許証の更新でそれを見た係員が、何気なく言った。

「珍しい顔ですね。木で彫ったみたいだ」

その年の冬、祖父が亡くなった。

葬儀のために山の家へ戻ると、奥の座敷に親戚が集まっていた。面さんはいつもの壁に掛かっていた。けれど私は、しばらくそれが面だと分からなかった。

祖父の顔に見えたからだ。

葬儀が終わったあと、母が私に言った。

「あんた、昔からあの面に似てたけど、最近ますます似てきたね」

私は笑えなかった。

今、その家には私が住んでいる。

就職先は辞めた。はっきりした理由はない。ただ、街の部屋では眠れなくなった。夜中に窓が鳴ると、体が勝手に起きてしまう。誰かが外から覗いている気がするのだ。

山の家では、よく眠れる。

奥の座敷に布団を敷くこともある。面さんは壁に掛かったままだ。夜中、廊下で何かがすれる音を聞くことはあるが、怖いとは思わなくなった。

たまに客が来ると、必ずあの面の前で足を止める。

「これ、どこかで見た顔ですね」

そう言われるたび、私は「古いものですから」と答える。

最近、洗面所の鏡を見る時間が短くなった。

別に怖いわけではない。

ただ、鏡を見るより、座敷の面を見ているほうが、自分の顔を確かめやすい。

[出典:2015/07/15(水) 13:28:49.72 ID:SVXeXbgn0.net]

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