ネットで有名な怖い話・都市伝説・不思議な話 ランキング

怖いお話.net【厳選まとめ】

中編 r+ ほんのり怖い話

闇に浮かぶ顔は、誰のものか r+1,400-2,114

更新日:

Sponsord Link

大学四年の夏、就職が決まって、友人たちは海だの合宿だのと騒いでいた。

だが私は急に空いた時間を持て余し、ふと思い立って母方の田舎に住む祖父を訪ねることにしたのだ。

山の奥、地図で見れば灰色の国道から脇に逸れて、細い線が途切れがちに伸びている。その先にある集落のさらに奥。電車も通らず、バスも一日に二本。夜になれば街灯は一つもなく、窓から見えるのは闇に沈む山肌ばかり。虫の声と川のせせらぎだけが、世界の底から湧き上がる音のように広がっていた。

祖父の家は百年以上前に建てられた古民家だった。茅葺きはもうトタンで覆われているが、梁や柱は人の背丈より太く、畳のきしみは何十年もの呼吸を刻んでいる。古い匂いと湿り気に混じって、どこか甘ったるい土の匂いが鼻の奥に張り付く。私は小さい頃からこの匂いを「田舎の匂い」だと覚えていたが、年を重ねるほどに異様さが滲んでくる。

家の奥の座敷に、不釣り合いなほど存在感のあるものが掛けられていた。木彫りの面。能面のように見えるが、もっと荒く、左右の目の深さが違う。口元はわずかに開いているが、そこから湿気を吸い込みそうで近寄り難い。私はそれを幼い頃から「面さん」と呼ばれてきた。祖父の家では、誰もがそう呼んでいた。

面さんは家の守り神だと聞かされていた。だが同時に、夜ごと浮かび上がって家を彷徨うという噂も囁かれていた。親戚の誰に尋ねても、冗談めかして笑うか、口を閉ざすかのどちらかだった。私は半信半疑のまま、ただあの無表情な顔の輪郭だけが頭から離れず、訪れるたびに目をそらせなくなっていた。

夕食の席で、私は祖父に軽い調子で尋ねた。「あのお面、最近動いたりしてる?」
祖父は口元をゆるめて、「わしは面さんのある部屋では寝んからな。分からんよ。ただ守り神じゃ、怖がるもんじゃない」と言った。その言い方には冗談とも本気ともつかない響きがあり、私の背筋に汗が滲んだ。箸を持つ手の甲に、小さな虫がとまっていたのに気づきもせず、じっと祖父の顔を見ていた。

その夜、私は好奇心と気まぐれに突き動かされて、面さんのある座敷で寝ることを決めた。祖父は止めもしなかった。ただ黙って布団を敷き、行燈のようなスタンドを一つ置いて部屋を出て行った。襖が閉じられた時、私は自分から檻の中に入ったような感覚を覚えた。

部屋の中は畳の匂いと、長年閉じ込められた木材の渋い香りが混じっている。薄暗い光に照らされた面は、壁に掛けられたまま微動だにせず、ただこちらを見ているように感じられた。私は布団に横になり、スマートフォンをいじりながら時折顔を上げた。その度に面の位置が、わずかに近づいて見える気がした。気のせいだと頭では分かっていても、心臓の鼓動は指先まで震えを送っていた。

深夜二時を過ぎた頃、腹の底に鈍い痛みが走った。どうやら夕飯に食べた煮物が合わなかったらしい。私は布団を抜け出し、足音を殺しながら廊下を進んだ。祖父を起こさぬようにと考えていたのに、耳の奥では自分の息遣いばかりが大きく響いていた。

田舎の家だが、トイレだけは洋式で新しく造り替えられていた。ほっとしながら便座に腰を下ろしたその時だった。ドアがわずかに揺れ、「カタカタ」と小さな音を立て始めた。最初は風かと思った。だが音は次第に大きくなり、明らかに外から力が加わっている。やがて「コツコツ」というノック音に変わった。規則正しく、だが穏やかではないリズム。私は喉の奥を掴まれたように息を詰めた。

同時に、鼻を突く異臭が漂ってきた。土を掘り返した後のような、草を腐らせたような匂い。喉が詰まり、声を出そうとしても空気が逆流して咳になった。目に涙が滲み、全身が震え出す。便座の冷たさに体を押し付けるようにしながら、心の中で繰り返した。「ごめんなさい、ごめんなさい」と。何に対しての謝罪か分からない。ただ言葉だけが自分を支える杭のようだった。

私は震えながら、背後の小窓に気配を感じた。振り返った瞬間、血が凍りついた。窓枠を掴み、這い出ようとしている女がいた。白く血の気のない顔。無表情のまま、ゆっくりと腕を引き上げてくる。動きは生きた人間というより、機械仕掛けの人形に近かった。目は私を見ていないようでいて、確実にこちらに向かっていた。

恐怖に突き動かされ、私はトイレのドアを開けて飛び出した。だが廊下に出た途端、目の前に面が宙に浮いていた。あの面さんが、壁から外れて空中に漂い、私に向かって真っ直ぐ飛んできたのだ。逃げる間もなく、それは私の顔に吸い付くように張り付き、視界が闇に覆われた。

意識を失う直前、耳の奥で女の呻き声とも笑い声ともつかない音が響いた。

目を覚ました時、私は畳の上に倒れていた。頬に触れるい草のざらつきが生温かく、口の中には鉄の味が広がっていた。ぼんやりと視界を開けると、祖父がこちらを覗き込んでいた。煤けた顔の皺の深さが、灯りの下でさらに濃く刻まれていた。

「……起きたか」
低い声が耳に落ちた。私は震える唇で「面が……」と呟いた。だが自分の声があまりに掠れていて、自分のものとは思えなかった。祖父はしばらく黙り込み、やがて一言だけ吐き出した。「お鶴さんだな」

その名を耳にした途端、体が跳ねた。聞き覚えのない名前なのに、冷水を浴びせられたような感覚が背を走ったのだ。祖父は黙って立ち上がり、奥の戸棚から小さな木箱を取り出した。そこには乾いた土のような匂いのする和紙が詰め込まれていた。

「呼んでくるしかないな……ヨネ婆さんを」
祖父が呟くと、私は理解できないながらも頷いていた。

やがて、夜の闇を裂くように軋む戸の音がして、一人の老婆が入ってきた。背は曲がり、頭には白髪が乱れて結ばれている。祖父が「ヨネ婆」と呼んだその人は、私を見るなり目を細めた。眼差しは鋭く、だが濁りはなく、どこか透けているように思えた。

ヨネ婆は小声で呪のような言葉を唱え始めた。節を刻むように繰り返されるその響きは意味が分からぬのに耳にまとわりつく。私は震えながら面の掛けられた座敷に戻された。灯りは最低限に落とされ、闇に浮かぶ面は、まるでこちらの息遣いを真似して膨らんでいるように見えた。

その時だった。襖の外から、すり足のような音が響き始めた。砂を引きずるような音。廊下の板が沈むたび、埃っぽい匂いが鼻を突く。私は祖父の袖を掴んだが、祖父は目を閉じ、黙って経を唱えるヨネ婆に視線を向けた。

襖がわずかに開いた。月明かりの筋の中に、白い影が浮かんでいた。髪が濡れたように垂れ下がり、顔は真っ白で、唇だけが固く閉じられている女。その姿は私がトイレの窓で見たものと同じだった。

女は音もなく部屋に入ってきた。視線は床を這い、やがてゆっくりとこちらへ上がってきた。目が合った瞬間、胸の奥に冷気が突き刺さり、声を出すことができなくなった。足元からは小さな赤ん坊の泣き声が広がった。だがそこにいたのは赤ん坊ではなく、四肢の長さがおかしい異形のものだった。手足が蛇のように細長く、体を這わせながら近づいてくる。

私は叫ぼうとしたが、喉は閉ざされていた。ヨネ婆は声を張り上げ、面を指差した。祖父が面を外し、私の顔に押し付ける。吸い込まれるように張り付いた瞬間、耳鳴りが爆ぜ、視界は暗闇に呑み込まれた。

闇の中で私は不思議な感覚に包まれた。自分の体があるのか分からず、ただ何かに守られているような重さを感じた。女の声と赤ん坊の泣き声が重なり合い、やがて混乱するように遠のいていく。面が私を隠し、幽霊たちは私を見失ったのだと直感した。

どれほどの時間が経ったのか分からない。ふと目を開けると、女の姿も異形の赤ん坊も消えていた。畳の上には湿った跡だけが残り、草を腐らせた匂いがまだ空気に漂っていた。

祖父は深く息を吐き、ヨネ婆は肩を震わせながら「間に合った」とだけ呟いた。私は面を外そうとしたが、祖父が制した。「まだだ。この家の守りは、面と共にある」

私は布団に座り込み、汗に濡れたシャツを握りしめていた。心臓の鼓動が耳の奥を叩き続けていた。

翌朝、私は重い体を引きずりながら縁側に座っていた。夜明けの光は淡く、霧が庭の石灯籠に絡みついていた。祖父は煙草をくゆらせ、ヨネ婆は庭を見つめたまま何も言わなかった。

沈黙に耐えられず、私は問いかけた。「あの女……誰なんだ」
祖父は煙を吐きながら答えた。「お鶴さんだ。わしらの先祖の婚約者でな。結ばれるはずじゃったが、嫉妬やら争いやらで命を落とした。その怨みは、この家の男たちに代々付きまとってきた」

その声は淡々としていたが、奥底に澱のような痛みが沈んでいるのを感じた。ヨネ婆は低く付け加えた。「面さんは、その怨みを封じるために祀られたもの。家を離れた者には守りは効かん。ここに縛られた者だけが、庇護を受けられる」

私はその言葉に息を呑んだ。祖父は真っ直ぐに私を見据えた。「お前があの夜生き延びたのは、面さんが守ったからだ。この家に残るかどうかは、お前次第だ」

胸の奥に重石を押し込まれたような感覚が広がった。自由に都市で暮らすはずだった未来が、急に遠くへ押しやられたように思えた。だが同時に、あの女の顔を再び目にする恐怖が、理屈を超えて決断を迫った。私は黙って頷いた。

それからの日々、私は祖父と共に山奥の暮らしを始めた。朝は畑を耕し、夜は囲炉裏で飯を炊く。面さんは相変わらず座敷の壁に掛けられていた。時折視線を感じるが、以前のような圧迫感はなく、むしろどこか温かさを孕んでいた。

祖父は口数が少なくなり、ヨネ婆も姿を見せなくなった。私は少しずつ「ここに残ること」が当然のように思えてきた。だが月が満ち欠けるたびに、夢の中で女の姿を見ることがあった。顔は近いのに遠く、言葉はなく、ただ静かに私を見つめていた。

ある晩、縁側で夜風を浴びていると、庭先に白い影が立っているのを見た。あの女だった。だが動くことも、襲いかかることもなく、ただ面さんを見上げるように首を傾けていた。私は立ち上がりかけたが、不思議と恐怖は湧かなかった。その姿は、長い時間を経た諦めのように見えたのだ。

翌朝、祖父が呟いた。「お鶴さんは、ようやく眠れたんじゃろう」
私はその言葉を深く問い返さなかった。ただ胸の奥で、何かが静かに終わったように感じた。

それから数年が経ち、祖父は世を去った。葬儀の夜、親戚たちが集まる中で、私は座敷の面を見つめていた。相変わらず無表情なのに、そこには確かに祖父の面影が宿っているように思えた。

私は気づいた。面さんはただの木の彫り物ではない。代々の記憶と祈りが染み込み、家に縛られた者を守るための「顔」となっているのだ。

今、私はこの家で暮らしている。お鶴さんの姿を再び見ることはなくなった。だが夜になると、面に向かって語りかける癖がついた。返事があるわけではない。ただ無言の存在が、私の顔を映す鏡のように思えるのだ。

時折、客人が訪れると、決まってあの面に目を留める。そして不思議そうに「この顔、どこかで見たことがある」と呟く。私は笑って肩をすくめる。自分でも時々そう感じるからだ。

あの夏、面に取り込まれた瞬間から、私はもう私だけではなくなったのかもしれない。

[出典:2015/07/15(水) 13:28:49.72 ID:SVXeXbgn0.net]

Sponsored Link

Sponsored Link

-中編, r+, ほんのり怖い話

Copyright© 怖いお話.net【厳選まとめ】 , 2025 All Rights Reserved.