小学校四年生の七月だった。
教室はいつも少し濁っていた。窓を開けても風は入らず、誰かの視線だけが、黒板の端や机の下を這っていた。
万里は、その視線の真ん中にいた。
首の病気だと聞いた。詳しいことは知らない。ただ、お姉さんの喉元が膨らんでいるのを見て、みんなはそれだけで十分だったらしい。
「うつるんじゃない?」
「親もそうなんでしょ?」
笑い声は、いつも私の背中側で起きた。私は振り向かなかった。ただ、万里の机から少しずつ距離を空けた。
嫌いになったわけじゃない。ただ、同じ側に立つ勇気がなかった。
ある日、万里に声をかけられた。
「新しいゲーム、買ってもらったの。一緒にやらない?」
一瞬、断ろうとした。でも、周りに誰もいなかったから、うなずいた。
万里の家は静かだった。二階の部屋でゲームをして、笑った。久しぶりに、何も考えずに笑った気がする。
途中でトイレに立ち、一階に降りた。
用を済ませて廊下に出ると、玄関の前にお姉さんが立っていた。
長い髪が肩に落ちている。喉元のふくらみが、服の上からでもわかった。
「こんにちは」
小さく言うと、お姉さんは私の名前を呼んだ。
「ひろみちゃん」
どうして知っているのかとは思わなかった。
「万里と、遊んでくれて、ありがとう」
声は低くて、やけに落ち着いていた。
「万里はね、ひとりになるのが嫌いなの」
そう言って、少しだけ笑った。
そのとき、玄関の電話が鳴った。お姉さんは振り向かず、私だけが音のほうを見た。もう一度廊下に目を戻したとき、そこには誰もいなかった。
二階に戻ると、万里は画面を見たまま言った。
「ひろみ、今日ずっと一緒にいてくれる?」
笑って答えた。
「うん」
その日の夜、母が電話を受けた。
万里が事故に遭ったと聞いた。夕方、家の近くで。搬送された病院は、お姉さんが入院しているところだったという。
「お姉さんは、ずっと病室にいたって」
母がそう言った。
私は何も言わなかった。
通夜のあと、万里の母は私に手を握らせた。
「万里ね、最後に“ひろみと遊べてよかった”って言ってたのよ」
その言葉は、感謝なのか確認なのか、わからなかった。
数日後、お姉さんも亡くなった。
家を処分する前に、万里の母からゲームを譲られた。供養になるから、と。
八本のソフトのうち、二本は見覚えがなかった。
一本を開けると、折りたたまれた紙が入っていた。
「お姉ちゃんばっかりずるい」
別の紙には、人型に切ったものに赤い字で名前が書かれていた。
『はるみ』
身体の部分に、何度も同じ言葉。
『しね』
母はそれを燃やした。
「寂しかったのね」と言って。
私は何も言わなかった。
それから年月が経った。
一人暮らしを始めるため、段ボールを整理していると、あのゲームが出てきた。捨てる前に中身を確かめようと思い、触ったことのない一本を開けた。
また紙が入っていた。
「最近ひろみのやつが冷たい」
「他の子と仲良くしてんじゃねーよ」
最後の一枚は、人型だった。
『ひろみ』
そして、胸のあたりにこう書かれていた。
『二十歳になったら、かわってね』
その字は、前より丁寧だった。
私は来月、二十歳になる。
誕生日のことを考えるたびに思い出す。
あの日、廊下でお姉さんが言った言葉。
「万里はね、ひとりになるのが嫌いなの」
あのとき、私はちゃんと答えただろうか。
ずっと一緒にいると、言っただろうか。
それとも。
あの日、万里と遊んだのは、本当に一人だったのだろうか。
(了)