一年経った今になってようやく、あの日のことを冷静に思い返すことができるようになった。
去年のちょうど今頃の話だ。
その日は金曜日で、会社の同僚たちと飲み歩いていた。二軒、三軒と店を変えて、気付けばみんなベロベロだった。案の定、終電なんてとっくに無くなっていて、俺を含めて四人は駅前のカプセルホテルに泊まることにした。
フロントで確認すると、空きは二室しかないという。結局、先輩の俺と、家が近い同僚ひとりが譲る形で、ホテルを出た。彼はタクシーを捕まえるため駅の方へ向かい、俺は電話で別のカプセルホテルに空きがあるのを確認して、歩き出した。
ホテルの入口から十メートルほど進んだところで、不思議な衝動に襲われて立ち止まった。理由なんてなかった。ただ、何となく足が止まったのだ。
次の瞬間、俺の目の前に「それ」は落ちてきた。
三メートル先、地面に叩きつけられた音は、今でも耳に焼き付いている。「グシャッ」という鈍くいやらしい音。見れば、中年の男が仰向けに倒れて動かない。
頭が直角に曲がり、側頭部は不自然に凹み、鼻からは血が流れていた。カプセルホテルの浴衣を着た、どこにでもいそうな五十代くらいの男だった。俺は、助けなければと思いながらも心の奥で「嫌なものに関わった」と悟っていた。
その後は警察に事情を聞かれ、身元確認やらで二時間は拘束された。
解放された頃には朝の四時を過ぎていて、もう泊まる気も失せ、漫画喫茶で時間を潰した。けれど眠れなかった。
地獄が始まったのはその晩からだ。
目を閉じると、あの男が落ちてくる。ゆっくりと立ち上がり、頭をカクカクさせ、笑みを浮かべながらこちらに近付いてくる。逃げたいのに体が動かない。抱きつかれると、一緒に底知れぬ闇に落ちていく。落下する恐怖で目を覚ます。
再び眠ればまた同じ夢。ひと晩に五度も六度も繰り返す。
次第に眠ることが苦痛になった。仕事中の居眠りでさえ同じ夢を見る。休まる時が一瞬もない。
最初は恐怖に震えていたが、やがて恐怖よりも「終わらない反復」に心を削られていった。
アルコールで無理やり眠れば夢を見ないことが分かり、毎晩浴びるように酒を飲むようになった。だがそんな生活が続くはずもなく、遅刻やサボりが重なって上司に叱られ、酒を絶った瞬間、悪夢は舞い戻ってきた。
精神科に行こうかと本気で考え始めた頃、転機が訪れた。
営業先に向かう電車で、うとうとと眠りに落ちたときのことだ。
いつもの闇の中、例の男が現れる。だが様子が違った。近付いてこない。歯を食いしばり、「アーッ、アーッ」と声を絞り出している。恐怖よりも奇妙さに息を呑んだその瞬間、肩を揺さぶられて目を覚ました。
見知らぬ老人が俺を覗き込み「兄さん、死ぬぞ」と言った。頑固そうな顔つきの、初対面の爺さんだった。
訳がわからないまま駅で一緒に降り、喫茶店に入った。
老人はコーヒーとサンドイッチを注文し、食べながら突然切り出した。
「兄さん、自分でも気付いてるだろう。悪霊に魅入られてる。お守りがなきゃとっくに死んでた」
その言葉を聞いた瞬間、涙が止まらなくなった。誰にも言えなかった恐怖を言い当てられ、崩れ落ちた。
彼の家に案内され、数珠を握らされ、経を唱えられた。二時間近く続いた読経の後、爺さんは語った。
「兄さんを狙ってるのは落ちてきた男じゃねえ。その男を憑り殺した化物だ。男はおとりで、兄さんを巻き添えにしようとした。だが兄さんには“お守りさん”が付いていた。だから今まで命があったんだ」
お守りさん――それが誰なのかは分からない。けれど俺を必死に守ってくれている存在があるという。爺さんはその力を借りて、化物と俺の縁を断ち切ろうとしてくれたのだ。
「指先にぶら下がってる兄さんを、化物は掴もうとしている。お守りさんが邪魔をしている隙に、指先を切り落とす。それで縁を絶つ。今ならまだ間に合う」
そう告げられたとき、全てが腑に落ちた気がした。
それから俺は毎月、彼の家を訪れるようになった。
数珠を肌身離さず持ち、眠るときも腕にテープで巻きつけた。
会社は辞め、実家に戻り、小さな会社に再就職した。生活は一変したが、不思議と心は軽くなった。悪夢も、時折思い出のように現れるだけで、以前のように繰り返されることはなくなった。
そして一年が経ち、爺さんは「もう縁は切れた」と告げた。数珠は返したが、代わりに彼が作った新しい数珠を受け取った。俺は決めている。彼が死ぬまで、毎月あの家を訪ねるつもりだ。
あの日の落下音は今でも耳から離れない。だが俺は生きている。生かされたのだ。
夢の底に引きずり込む笑みは、もう俺を掴むことはできない……そう信じている。
[出典:254 去年の出来事 2010/10/31(日) 01:06:09 ID:B9Z258Oh0]