一年経った今でも、あの夜を「終わった出来事」として整理することはできない。
思い返せるようにはなった。ただ、それだけだ。
去年の今頃、金曜日の夜だった。仕事終わりに同僚数人と飲み歩き、気付けば終電はなくなっていた。駅前のカプセルホテルに流れ込み、フロントで空きを聞くと二室だけ残っているという。四人のうち、俺ともう一人が譲る形で外に出た。彼は駅前でタクシーを探し、俺は電話で別のホテルに空きを確認しながら歩き出した。
入口から十メートルほど進んだところで、理由もなく足が止まった。立ち止まったというより、止められた感覚に近い。次の瞬間、目の前で何かが落ちた。
三メートルほど先、地面に叩きつけられた鈍い音。潰れた袋を投げつけたような、湿った音だった。視線を落とすと、中年の男が仰向けに倒れていた。頭の角度がおかしい。側頭部が凹み、鼻から血が流れている。着ていたのは、さっきまで俺がいたカプセルホテルの浴衣だった。
助けなければと思った。だが同時に、これは「関わってはいけないもの」だと、どこかで理解していた。警察と救急が来て、事情を聞かれ、身元確認に立ち会わされ、気付けば二時間以上が過ぎていた。解放されたのは明け方近くで、もう泊まる気にもなれず、漫画喫茶で時間を潰した。眠れなかった。
地獄が始まったのは、その夜からだ。
目を閉じると、落ちてきた男が現れる。今度は立ち上がり、頭を不自然に揺らしながらこちらに向かってくる。逃げようとしても体が動かない。抱きつかれると、そのまま一緒に落ちていく。暗く、底の見えない場所へ。落下の感覚で目を覚ます。
眠り直すと、また同じ夢を見る。一晩に何度も繰り返した。次第に眠ること自体が恐怖になり、仕事中にうとうとしても同じ夢を見るようになった。恐怖よりも、終わらない反復が精神を削っていった。
酒を飲めば夢を見ずに眠れることに気付き、毎晩のように浴びるように飲んだ。だが当然、生活は崩れた。遅刻や欠勤が増え、酒をやめた途端、悪夢は前よりも鮮明に戻ってきた。精神科の文字が頭をよぎるようになった頃、妙な出来事が起きた。
営業先に向かう電車で、座ったまま眠りに落ちた。夢の中で、いつもの闇が広がる。男はそこにいたが、近付いてこない。歯を食いしばり、喉の奥から絞り出すような声を出している。怒りとも苦痛とも取れる音だった。その瞬間、肩を揺さぶられて目を覚ました。
見知らぬ老人が、すぐ目の前に立っていた。「兄さん、このままだと死ぬぞ」と低い声で言った。寝ぼけているのかと思ったが、電車はすでに駅に停まっていた。
訳も分からないまま一緒に降り、近くの喫茶店に入った。老人はコーヒーとサンドイッチを頼み、食べながら、こちらを見ずに話し始めた。「落ちたのを見ただろう」「それから眠れてないだろう」事実だけを並べる口調だった。否定しようとして、声が出なかった。
彼の家は古い一軒家で、室内には線香の匂いが染みついていた。数珠を握らされ、意味の分からない言葉を聞かされる時間が続いた。時計を見る余裕もなかった。終わった頃には、体の感覚が薄くなっていた。
老人は何かを説明しようとしたが、途中で言葉を変えた。「全部分かったと思うな。分からないままでいい」そう言って、俺の手首をしばらく掴んでいた。強くもなく、弱くもない力だった。
その夜、初めて夢を見なかった。いや、正確には、夢を見たかどうか分からなかった。
それから毎月、老人の家を訪れるようになった。理由を聞かれれば、通っている、としか答えられない。数珠は常に身につけるよう言われ、眠るときは腕に巻いた。会社を辞め、実家に戻り、別の職に就いた。環境が変わったせいか、悪夢は次第に形を失っていった。
一年後、老人は「もう前みたいには来ないだろう」と言った。数珠を返し、新しいものを渡された。前とどこが違うのか、俺には分からない。
落下の音はいまも耳に残っている。夢の底で見たものが何だったのか、考えないようにしている。ただ、眠りから覚めたとき、腕に巻いた数珠が、以前より強く食い込んでいる気がする夜がある。
それが守りなのか、別の何かなのか、確かめる方法はない。
[出典:254 去年の出来事 2010/10/31(日) 01:06:09 ID:B9Z258Oh0]