これは、今でも思い出すと背筋がじっとり冷たくなる、平成十一年七月六日の夜の話だ。
当時、俺は大学の夏休みを利用して、常磐新線──今で言うつくばエクスプレス──の敷設工事に日雇いバイトとして参加していた。工区は北千住の北側、荒川を越えたあたり。ここは常磐線と東武線が交差する地帯で、住宅も密集していて土地のやりくりが難しい場所だった。そのため、既存の常磐線を数メートルほど北に移動させ、新線の用地を確保する必要があった。
日中は電車がひっきりなしに通るから、工事は夜間に集中して行われる。ちょうどその夜も、雷雨が過ぎ去った直後だった。雨上がり特有の湿った冷気が、まるで地面から吹き上げるように足元を撫でていた。時刻は午前零時を回った頃。無線の音も、重機のエンジンも一時的に止み、周囲はしんと静まり返っていた。
ふと、線路の先に人影が立っているのが見えた。背広姿の男だった。ここで働いているのは俺を含めて数人のバイトと建設会社の社員だけ。全員が蛍光ラインの入った作業着を着ていたから、あの男は明らかに異物だった。
「おい、ちょっと行って注意してこい」
現場監督の指示で、俺はその男の方へ歩き出した。正直、面倒くさかった。どうせ酔っぱらいが迷い込んだだけだろうと思っていた。でも、近づくにつれて、何かがおかしいと感じた。異様に静かなのだ。あれだけ雷鳴が轟いていたのに、虫の声すらしない。
「こんなとこで何してるんですか。危ないですから出てください」
俺が声をかけると、その男はゆっくり振り返った。にこり、と笑って言った。
「すみません。すぐに出ますよ」
五十代くらい。面長で、金縁眼鏡をかけている。中背でがっしりとした体格。上品な雰囲気をまとった、いわゆる“紳士”という言葉がぴったりくる男だった。酔ってる様子もなければ、不審な挙動もない。
「こんな時間に、何をしに……?」
そう訊ねると、男は微笑みながら言った。
「ちょっと、訳あってね。この場所に、来てみたくなったんですよ」
現場監督の「休憩にしよう」の声に紛れて、男と俺はその場で話を始めた。休憩時間中、俺はずっと彼の話を聞いていた。
彼は、某新聞社の社会部に勤める記者だという。過去数ヶ月に渡って、ある事件を追っていた。その締めくくりとして、最後に“ここ”を訪れておきたかったと。
「君が生まれる前の話だ。この場所で轢し体が発見された事件があってね。国鉄の総裁だった下山という男が、失踪した翌日に、このあたりで死体となって見つかった。自殺か他殺かは、いまだにわかっていない」
下山事件──その名前を俺は初めて聞いた。歴史に無頓着だったし、授業中も寝てばかりだったからだろう。
「この事件はずっと闇の中でね。松本清張や大野達三が追い続けて、先輩記者も生涯をかけた。でも核心には届かなかった」
彼は、東武線をくぐった先──綾瀬寄りに数十メートル進んだ、まさにその地点を指さして言った。
「ここなんだ。彼の体が見つかったのは」
その言葉に、背中を走る汗が冷えていくのがわかった。さっきまでの肌寒さとはまるで違う感覚。骨の奥から響くような、恐怖のざわめき。
「僕はその足跡をなぞっていたのかもしれないな。今日、最後にこの地を見ておきたかったんだ」
現場監督の再びの呼び声で、彼との会話は終わった。
「つまらない話で迷惑をかけてしまったね」
そう言って、彼は名刺を差し出した。
「たぶん、来週の新聞に僕の記事が載ると思う。興味があれば、ぜひ読んでみてほしい」
名刺をポケットにねじ込み、俺は現場に戻った。
だがその後も、どうしても彼が指さした“その場所”が気になって仕方がなかった。砕けた骨、裂けた肉、飛び散った臓物……想像すればするほど、足元のアスファルトが生臭く見えてくる。
作業中、何度も振り返った。視線の先には誰もいないはずなのに、気配だけが絶えずまとわりつく。
──そして一週間後。
気になって新聞をチェックしたが、あの男の記事はどこにも見当たらなかった。ボツにされたのかと思い、妙な苛立ちが募った。
あれだけ情熱を持って語っていたのに?
何ヶ月もかけた取材だったのに?
ふと、財布にしまっておいた名刺を思い出し、取り出してみた。
──そこで俺の時間は止まった。
名刺にはこう書かれていた。
「日本国有鉄道 総裁 下山貞則」
冗談にも程がある。けれど、あのときの男の真剣なまなざし、落ち着いた口調、重みある言葉……とてもふざけているようには思えなかった。
念のため、彼が所属していたという新聞社の東京本社・社会部に電話をかけてみた。
「そんな記者、こちらにはおりません」
淡々とした返事が返ってきた。
だが、ちょうどその年は、下山事件から五十年目の節目だったらしく、七月中に特集記事を組む予定はあると教えられた。
「でも……眼鏡かけた五十代の男性、下山事件を追ってるって人?いや、心当たりないね。そんな人、いたらうちでも話題になってるはずだけど……もしかして、下山総裁本人に会ったんじゃない? わっはっは」
冗談だと笑っていたが、俺はもう笑えなかった。
──だって、俺が彼に会ったのは七月六日。
それは、下山貞則が轢死体で発見された日だったのだから。
あの夜、雷雨の中、まっすぐ俺を見つめていた男。
名刺を差し出し、にこりと笑ったあの紳士。
……まさか、本当にあの人が。