朝の申し送りが終わる前から、病棟がざわついていた。
「飛び降りがあったらしい」
誰かがそう言って、誰かが「またか」と舌打ちした。
その病院は、糖尿の患者が散歩に使うという名目で屋上が常時施錠されていなかった。実際は、誰でも出られる。辞める直前の俺は、それを知っていたし、だからこそ嫌な予感もしていた。
飛んだのは産婦人科の患者だった。妊娠中毒症で入院中、精神状態が不安定だったという話はすぐに共有された。旦那の浮気だの、マタニティブルーだの、よくある説明が後追いで貼り付けられていく。
医療現場では、理由が揃えば出来事は片付いたことになる。
遺体はすでに回収されていた。
「もうちょっと早ければ見れたのにね」
同僚の冗談に、俺は笑わなかった。見たいわけがない。ただ、あそこはドクター専用駐車場だ。朝のコンクリートは乾いているはずだった。
騒ぎが一段落した頃、刑事が病棟に入ってきた。制服じゃない。ブルゾン姿の、いかにも現場慣れした二人組だった。
「うちの病棟、関係なくない?」
誰かがそう言ったが、刑事は一室ずつ回り、淡々と同じ質問を繰り返していた。
「誰か、遺体のそばに行きましたか」
「触りましたか」
救命措置の有無を聞いているわけではなかった。その聞き方は、確認というより、否定を集めているようだった。
少しして、隣の産婦人科病棟から、もう一人刑事が現れた。
俺は思わず声を飲み込んだ。数ヶ月前、従姉妹と結婚したばかりの県警捜査一課の刑事だった。結婚式以来だ。
互いに形式的な挨拶を交わし、短い雑談をした。
「なんか、他殺の可能性でもあるんですか」
冗談半分で聞いた俺に、彼は即答しなかった。
「不審死は全部調べる」
それだけ言って、視線を俺の手元から離さなかった。
その瞬間、空気が変わった。親族の顔じゃない。完全に、刑事の目だった。
「誰も、触ってないよな」
もう一度、確認するように言う。
「救命できそうなら触るでしょうけど、今回は…」
そう答えると、彼は少しだけ眉を寄せた。
「そういう意味じゃない」
しばらく沈黙が続いたあと、彼は声を落として言った。
「まっすぐ落ちた。体の全面が、平らになる感じで」
それは報告であって、説明じゃなかった。
「その拍子かどうかは分からないが」
一拍置いてから続けた。
「腹の中の子が、外に出ていた」
言葉がうまく処理できなかった。
「破裂したわけじゃない」
淡々と補足する。
俺は何も言えず、ただ頷いた。
しばらくして、彼は唐突に聞いた。
「五ヶ月くらいの赤ん坊って、自分で動くか」
質問の意味が分からなかった。
「胎動はありますけど…」
「そうじゃなくて」
彼は言葉を切り替えた。
「移動できるか」
無理だと答えると、彼は短く「だよな」と言った。
「確認なんだ」
そう前置きしてから、続けた。
「母親の横に、あった」
何を、とは言わなかった。言う必要もなかった。
「落下位置とは、少しズレていた」
「誰かが動かした可能性は?」
俺は首を振った。
「だから聞いてる」
その言い方に、妙な焦りが混じっていた。
「誰も、触っていないことを確認しないといけない」
なぜそこまで確認するのか、理由は語られなかった。
物理的にどうこう、という話もなかった。
ただ、「触っていない」という事実だけを、何度も何度も積み上げていく。
その後、刑事たちは帰っていった。事件は自殺として処理された。
病棟は通常業務に戻り、申し送りも淡々と進んだ。
昼過ぎ、屋上は施錠されるようになった。
理由は誰も説明しなかった。
仕事に戻りながら、俺はずっと同じことを考えていた。
もし本当に誰も触っていないのだとしたら、
あの刑事は、何を確認していたのか。
答えは出ないまま、俺はその病院を辞めた。
今でも、駐車場のコンクリートを見ると、
「確認」という言葉だけが、頭に残る。
[出典:888 :三十路ナースマン:04/09/05 15:36 ID:GEOnrv1Z]