地元のキャンプ場のことを話す。
俺の小学校では五年と六年の夏、必ずそこで宿泊訓練があった。山の中腹にある湖の岸辺に、小屋が点々と並んでいた。大きな五十人用の小屋が二つ、それ以外に六人用、四人用、二人用の小屋が十棟ほど。木造で、どれも煤けた匂いがした。
当然ながら噂があった。湖に一番近い二人用の「桧」という小屋で、春先に若い女が首を吊ったらしい。それも失恋が原因だとか。それ以来、夜になると湖畔に白い影が立つという話。子供の俺たちには格好の肝試しのネタだった。
俺が五年の時、班は五人編成で「杉」という六人用の小屋に泊まることになった。大半の班が五十人用に押し込まれていたから、俺たちは「当たりを引いた」と大喜びした。班の構成は五年が三人と六年が二人。先輩たちがいるというだけで誇らしく、少し緊張もしていた。
夜になってカレーを食い、肝試しを済ませて小屋に戻ると、消灯時間がきた。本当なら寝るところだが、当然俺たちは眠らなかった。二段ベッドの上に集まり、持ち込んだ小型の懐中電灯でしおりの名簿を照らしながら、好きな女子の名前を言い合った。先輩も笑いながら参加していた。やはり一番人気は寛子。けれど、ある奴が「萌」と言った時は全員驚いた。あいつは男子だろう、と。農家の家だからか、とか、くだらない憶測で笑い転げた。窓から光が漏れぬよう毛布で覆いながら、息を殺して楽しんでいた。
恋バナが一段落すると、肝試しの話題になった。
「全然怖くなかったよな」ムネ君がぼやいた。
「そうそう、あんなの肝試しじゃねえ」俺も同調した。
実際、往復するだけのコースだった。先生が怖い話を語ってから送り出したものの、大きな小屋二つの間を歩くだけ。出るものも出やしない。
すると佐藤先輩が「熟小は湖の半周コースだったらしいぞ」と口を挟んだ。クニ先輩も頷いて、知り合いから聞いた話を披露する。最後の班が湖の半分あたりで知らない爺さんとすれ違ったという。しかもその爺さんは、そいつらを無視してすうっと消えるように去った、と。
「うへえ……」とやっちゃんが呻き、ムネ君は「逆にいいよな、そういうの」と言った。蛾次郎が「今から行ってみようぜ」と言い出し、俺は胸が高鳴って「いいね」と賛成した。もちろん先輩は「見回りの先生に見つかるだろ」と渋ったが、「トイレって言えばいい」と押し切った。
トイレは敷地内に数カ所あるが、湖に近い「桧」小屋の近くにひとつあった。そこまでは誤魔化せるだろうと考えた。
そうして俺たちは出発した。
わくわくと不安が半分ずつ、胸の奥で入り混じっていた。時刻はすでに日付を跨いでいた。あたりは真っ暗で、湖には霧がかかっていた。森の匂いが重く、虫の声すらまばらで、耳が痛いほどの静けさだった。俺たちはミニ懐中電灯を頼りに、木の根に躓きながら進んだ。
やがてトイレの建物が見えてきた。あそこを越えたら、もう言い訳はきかない。足が勝手に重くなる。そんな時だった。先頭を歩いていたムネ君が不意に立ち止まり、俺は背中にぶつかった。
「な、なんだよ」
振り返らず、ムネ君はただ指を伸ばした。湖の真ん中を。
そこに女がいた。
水面に立っていた。
黒髪を長く垂らし、白いワンピースのような衣装。湖面は静まり返り、波一つない。表情までは見えなかったが、確かにこちらを向いていると感じた。冷たいものが背骨を這った。
全員、声も出さず一列に並び、息を止めるように女を見つめていた。金縛りではない。動こうと思えば動けるのに、動けなかった。ただ目を逸らせないまま固まっていた。
女が、動いた。
いきなり全速力で走り出した。髪を振り乱し、白い腕を大きく振りながら、猛然とこちらに突進してくる。水面を蹴る音はしなかった。静かなまま、しかし確実に距離を詰めてくる。
やがて顔がはっきり見えた。
目を見開き、口を大きく裂き、だらりと舌を垂らした。焦点の合わない視線で、ジャンキーのようにイッてしまった表情。喉が凍りつき、叫ぶこともできない。
もう岸に届く。上がってくる。そう思った瞬間——
「こらっ!!!」
怒鳴り声と同時に、ドボンッという水音がした。強い懐中電灯の光に目が眩む。
管理人だった。
「お前ら、何やってる!」
慌てて佐藤先輩が「トイレに……」と答える。だが俺は、反射的に言ってしまった。
「女がいたんです」
管理人はそれを聞いても眉一つ動かさなかった。
「トイレは済ませたのか。ならさっさと戻れ」
そのまま追い立てられ、小屋に戻った。布団に潜ったが、眠れるはずもなかった。みんな同じだったろう。
翌朝、歯を磨きながら、俺はムネ君に声をかけた。
「昨日の、見たよな。女」
しかし彼は、首をかしげて笑った。
「女? そんなのいなかったよ」
俺は凍りついた。
「お前が最初に指さしたじゃないか」
「俺が見たのは女なんかじゃない。あそこに、頭がいっぱい浮かんでただろ」
——水面に、数え切れないほどの人間の頭が漂っていた、と。
耳鳴りのような朝の蝉の声が、やけに遠くに聞こえた。
[出典:882: 本当にあった怖い名無し 2015/08/25(火) 17:03:25.16 ID:VPiw4lDCO.net]