今でも、あの夜の湿った風を思い出すと胸の奥がざわめく。
仕事で通夜に参列した帰り道のことだ。ホテルのプランナーをしていた頃、十月に挙式を控えた新郎の父が亡くなった。長い闘病の末だったという。通夜の席で家族は静かに振る舞っていたが、空気の底にはひたひたと張りつく湿り気があった。結婚式は予定通り行う、と新郎は言った。その言葉を聞いた瞬間、私は式までの細かな段取りをどう整えるべきか頭を巡らせた。心は重く沈んでいた。
会場を後にしたのは夜十時を少し回った頃。車を出すと、窓の外は墨のような闇が広がっていた。高速入口は二つ。片方は自宅へ通じる道、もう一方は山を越えて抜ける遠回りの道。慣れたはずなのに、私はぼんやりとハンドルを切り、間違った方へ入ってしまった。
引き返す余地はなく、狭まる道に車を進める。ナビは緑色の線を示しているが、実際の景色は地図よりも荒れていた。舗装は細く、タイヤが縁石をなぞるたびに鈍い音を立てる。片側は急斜面で、草の匂いが窓の隙間から入り込み、湿った青臭さで喉を塞いだ。
圏外の表示が光る携帯を助手席に投げ出し、ラジオの音量を上げる。けれども曲は耳に入らない。孤独を紛らわせようと口を動かし、音程の定まらない歌を繰り返した。声が車内に跳ね返り、妙に甲高く聞こえる。胸の奥で、自分の心臓の音と混ざり合った。
そのときだった。前方にふっと揺れる影が浮かんだ。ライトの先に現れたのは、水色のトレーナーを着た中年の男。五十代ほどだろうか。彼は自転車を漕ぎ、静かにこちらとすれ違っていった。
理解が追いつかなかった。ここは山奥で、自転車を走らせるような道幅はない。舗装は割れ、草が路面を覆っている。なぜ彼は倒れずに進めるのか。しかもライトに照らされたその姿は妙に鮮明で、服の色や肩の厚みまで覚えているのに、顔だけは霞んでいた。
背筋に冷気が走り、ハンドルを握る手が汗で滑った。視界の端にまだ水色が残っている気がして、ミラーを見るのも怖かった。
その瞬間、車内の足元から「ワン」と低い声が響いた。アクセルの下、機械の奥から聞こえたように感じた。私はペダルから足を離し、息を止めた。犬など乗せていない。だが、その声は奇妙に落ち着いていて、胸の奥の緊張を和らげるものだった。まるで見えない番犬が、傍に伏せているようだった。
私は再び歌を口にした。震える声を犬の鳴き声に重ねるように。闇の中、車はゆっくりと坂を下り始めた。

やがて道は下り坂に変わった。
ハンドルを握る腕は痺れ、膝の震えをブレーキで押さえ込む。ライトの光に浮かぶのは、湿った路面と崩れかけたガードレールだけ。車体の下を石が弾くたび、胸の奥がひやりとした。
ふと、後部座席に重さを感じた。視線を向ける勇気はなかった。ミラーに映る暗がりの中で、何かがじっとこちらを見ている気配だけが残った。息を吸うと、湿った毛の匂いが鼻に入り、幼い頃に飼っていた犬の体温を思い出す。トム――白い雑種犬。数年前に死んだはずなのに、その匂いは確かに生きていた。
「ワン」と、また低い声。今度は明瞭に耳元で響いた。恐怖よりも懐かしさが勝ち、涙がにじんだ。幼い日の庭、泥だらけの犬の背中、雨上がりに濡れた毛並み。記憶が一気に押し寄せ、胸の奥を満たした。
視界に遠く町の灯りが滲んだ瞬間、全身の力が抜けた。電波が復活した携帯が震え、日常の世界に戻ってきたことを告げる。アクセルを踏み直し、ようやく息を整えた。
自宅に着いてからも、水色のトレーナーの男と、犬の声が頭を離れなかった。山道に自転車を押す人間などいるはずがない。それなのに、あの姿だけが鮮烈に残っていた。
翌朝、新聞を広げると新郎の父の訃報が改めて目に入った。写真の中の顔は、昨夜のあの人影に重なった。輪郭が霞んでいた理由を悟り、息を呑んだ。あれは、彼だったのだ。
私は胸の奥でひそかに祈った。どうか安らかに――。だがその祈りの最中、もう一つの気配が蘇る。トム。亡き犬の存在が、私を守ってくれたのではないか。そう考えると、不思議と心が温かくなった。
その夜から、私は眠りにつく前に必ずあの道を思い返すようになった。
闇に浮かぶ水色、足元の鳴き声、湿った毛の匂い。恐怖ではなく、見守られている安堵が心を包む。
やがて一つの思いにたどり着いた。あの男と犬は別々の存在ではなかったのかもしれない。死者と動物、ふたつの姿を借りて、同じものが私の前に現れたのではないか。
式当日、バージンロードを歩く新郎の背に視線を向けた瞬間、私は胸の奥であの鳴き声を聞いた気がした。祭壇の光がまぶしく、目が滲む。参列者の誰にも気づかれぬまま、私は確信した。
あの夜、山道で私を守ったのは、新郎の父であり、同時にトムでもあった。姿を分けて現れたのではなく、私の中でひとつに重なっている。
以来、私は祈るたびに二つの名を並べる。新郎の父の冥福と、トムへの感謝。呼びかける声はいつしか重なり、どちらを想っているのか自分でもわからなくなった。
――もしかすると、あの夜の車にいたのは「私」だけではなかったのかもしれない。ハンドルを握る手の奥に、父の意志と犬の体温が確かにあった。そう考えるたび、私はあの存在と一つに結ばれていると感じる。
そして今も、ときどき耳元であの低い声が響く。ワン、と短く。私自身の胸の奥から。