自分が十歳の時の話だ。
県庁所在地に近い場所で生まれ育ったが、母方の実家は同じ県とは思えないほど山深いところにあった。冬休みや夏休みになると、決まって数日そこへ預けられた。山に囲まれ、家の裏はすぐ雑木林で、少し歩けば獣道と見分けのつかない踏み跡がいくつも延びているような土地だった。
その年の夏、従兄弟と一緒に叔父の家に泊まりに来ていた。従兄弟は一つ年下で、魚釣りが好きだった。自分は特に興味もなかったが、叔父が「近くにナマズのいる沼がある」と言い出し、三人で出かけることになった。
沼は家から二十分ほど山に入った場所にあった。舗装された道は途中で途切れ、そこからは土の道になる。蝉の声がやけに近く、足元の草が擦れる音がやたら大きく聞こえた。湿った土と腐葉土の匂いが混じり、息を吸うたびに喉の奥が少し重くなる感じがした。
沼は思っていたより小さかった。水面は濁っていて、周囲の木々が映ることもなく、ただ黒っぽい色をしていた。風はほとんどなく、水は動いていないように見えた。
釣りを始めると、意外なほど簡単にナマズが掛かった。従兄弟ははしゃぎ、叔父も笑っていた。自分も二匹ほど釣れて、退屈だと思っていた気持ちはすっかり消えていた。
そのうち、違和感に気づいた。
音だった。
自分のすぐ周りの草むらが、不自然にがさがさと鳴り始めた。一定の方向ではない。前でも後ろでもなく、円を描くように、ぐるぐると動いている気配がした。
最初はウサギか、野良犬だろうと思った。そう思おうとした。だが、音の動きが速すぎた。小動物が走り回るにしては、足音が地面を叩く感じがしない。ただ、草だけが押し倒され、戻り、また別の場所が揺れる。
その時、叔父がこちらへ走ってきた。
顔色が違った。
笑っていた表情が消え、目だけが見開かれていた。
「帰るぞ」
低い声だった。怒っているようでもあり、怯えているようでもあった。
自分はまだ釣りたかった。従兄弟も同じだったと思う。だが叔父は何も説明せず、乱暴な手つきで竿をまとめ、荷物を掴み、さっさと歩き出した。振り返らない。
帰り道、叔父は一言も喋らなかった。
いつもなら冗談を言い、山の話をしてくれる人だったのに、足早に歩くだけで、こちらを見ようともしない。
家に着いてから、ようやく叔父が口を開いた。
「もう、あそこでは釣りはしない」
理由を聞くと、しばらく黙ってから、ぽつりと言った。
「お前の周りをな、黒いものが回ってた」
ラグビーボールくらいの大きさで、はっきりした形はなく、影が固まったようなものが、自分の足元から腰のあたりを、ぐるぐると回り続けていたのだという。
「見えなかったのか」
そう言われて、背中が冷えた。
自分には、何も見えていなかった。ただ草の音だけだった。
その夜、布団に入ってからも眠れなかった。目を閉じると、昼間聞いた草の音が蘇る。音だけが、形を持たずに、体の周囲を回っていく感覚。
それ以来、妙なことが起きるようになった。
何もない場所で、足元の草が揺れる。
風がないのに、影だけが動く。
自分が立ち止まると、周囲も一斉に静かになる。
叔父の家を離れて自宅に戻ってからも、それは続いた。公園でも、河原でも、同じ感覚があった。見えない何かが、一定の距離を保って回っている。
やがて、その感覚は薄れていった。成長したからか、慣れたからか、それとも本当に消えたのかは分からない。
ただ一つだけ、今でも確かなことがある。
あの沼の近くを通ると、今でも草の音が変わる。
風のせいではない音だ。
そして、自分はもう一度も、あの沼の全体を見ようとしたことがない。
見てしまえば、今度こそ「音」では済まなくなる気がしている。
[出典:159 :本当にあった怖い名無し:2008/01/05(土) 12:41:25 ID:4NZz24eN0]