夜中に目が覚めた理由を、いまだに説明できない。
登山の帰り、山中のロッジに泊まった夜のことだ。標高はそれほど高くなかったが、周囲は完全に山に囲まれていて、街灯もなく、夜になると建物の外は闇そのものになる場所だった。日中は木の匂いと湿った土の匂いが混じった空気が心地よかったはずなのに、夜になると、その匂いが急に重くなる。
大人たちは夕食のあと、別室で酒盛りを始めた。障子一枚隔てた向こう側から、笑い声やグラスの触れ合う音が断続的に聞こえてくる。子供は邪魔だと言われ、早々に布団と寝袋のある部屋に押し込まれた。布団は敷きっぱなしで、部屋の隅にまとめて置かれていた。天井は低く、梁がむき出しで、古い木のきしむ音が時折聞こえる。
一度は眠ったはずだった。
目を開けたとき、部屋は暗く、何時なのかも分からなかった。障子の向こうからはまだ人の気配がしていたから、深夜というほどではなかったのだと思う。寝袋の中で身動きも取らず、ぼんやりと天井を見つめながら、なぜ目が覚めたのかを考えていた。
そのとき、音がした。
トン。
小さく、乾いた音だった。木を軽く叩いたような音。風が吹けば、ロッジ全体が軋むから、最初はそれだと思った。だが、すぐに違うと分かった。
トン……トンキュー。
一拍置いて、妙な音が続く。最後の「キュー」は、叩く音ではなかった。擦れるような、撫でるような音だった。規則的で、同じ間隔で繰り返される。風ならこんな律儀な真似はしない。
トン……トンキュー。
トン……トンキュー。
音は、窓のある方向から聞こえてきた。ロッジの窓は、山側に向いている。外は崖と木立で、人が立てるような場所ではないはずだった。頭ではそう分かっているのに、音は確実に近く、窓ガラスのすぐ向こうで鳴っている。
目を閉じればよかった。
そう思ったのに、なぜか目を離せなかった。
カーテンは完全には閉じられておらず、風に煽られてゆらゆらと揺れていた。その隙間から、外が少しだけ見えた。月明かりはなく、闇の中で、何か白いものが動いた気がした。
トン。
その瞬間、理解した。
白っぽい手だった。手首から先だけが、闇の中に浮かんでいる。肌の色なのか、光の加減なのか判然としない。指の形だけが、やけにくっきり見えた。
その手が、窓枠を叩いた。
小指側の側面で、軽く、控えめに。
トン。
間を置いて、同じ叩き方でもう一度。
トン。
そして、人差し指だけを伸ばし、窓ガラスの上から下へ、ゆっくり撫で下ろした。
キュー。
音と動きが、完全に一致していた。
トン……トンキュー。
トン……トンキュー。
その動作を、手は黙々と繰り返していた。叩く力は弱く、割るつもりも、壊すつもりもないように見えた。合図のようでもあり、確認作業のようでもあった。中に誰かがいるかどうかを、確かめているようにも思えた。
呼びかける声はない。
戸を開けようともしない。
ただ、同じ動作だけを続けている。
息を吸うと、喉が鳴りそうだった。体が冷えているのに、汗が背中を伝うのが分かった。隣の部屋からは、まだ大人の話し声がしている。笑い声すら聞こえる。それが、やけに遠い。
名前を呼ばれたら終わりだ。
そう思った。
なぜそう思ったのかは分からない。ただ、確信に近い感覚だった。もし、あの手がこちらを認識したら、何かが変わる。叩き方が変わるのか、音が増えるのか、それとも――。
考える前に、体が勝手に動いた。
寝袋を引き上げ、頭まで潜り込む。視界を完全に遮り、耳だけを残した。心臓の音がうるさく、外の音が聞こえなくなるのが怖かった。
それでも、音は聞こえた。
トン……トンキュー。
トン……トンキュー。
回数を数えようとして、やめた。数え始めたら、終わりが分かってしまう気がした。いつ止まったのか、覚えていない。気が付いたときには、朝だった。
窓を見ても、何もなかった。
外には足跡もなく、カーテンも元のままだった。
誰にも話さなかった。
今でも、夢だったのかどうか、判断はつかない。
ただ、あの「キュー」という音だけは、今でも耳に残っている。
[出典:744 :本当にあった怖い名無し:2008/01/29(火) 00:52:30 ID:JKsvvNI5O]