ウクライナを取材で回っていたとき、案内してくれた現地の記者が、タバコに火をつけながら「観光向きじゃない話だけど」と前置きして聞かせてくれた話がある。ソ連時代、とある地方都市で、人が「その場から消える」事件が相次いだというのだ。誘拐でも家出でもなく、目撃者の証言では「暗がりの中で、服と荷物だけ残して、その人だけが抜け落ちるようにいなくなる」らしい。
二〇一〇年の初冬、私はウクライナのキーウに滞在していた。
取材のテーマはソ連崩壊後の未解決事件だった。現地コーディネーターが「とっておきがある」と囁かなければ、私はボルシチを食べて帰国していただろう。連れて行かれたのは、市街地外れの団地地下にある薄暗い酒場だった。
常連の老人が一人、奥の席にいた。
名をイワンと言った。七十を超えているはずだが、顔色は日焼けではない土気色で、指の関節だけが不自然に白い。
「録音はするな。メモも取るな。ただ聞け」
そう言って、彼はウォッカのグラスを両手で包んだ。
「この記憶を、私の頭からあんたの頭へ移したい。それが終わらないと、私は終われない」
彼が語り始めたのは、一九八二年、ウクライナ北部の工業都市Zで起きた出来事だった。
――――
当時、私は民警に配属されたばかりだった。町は褐炭の煙と雪に沈み、希望という言葉だけが壁の標語に残っていた。
最初の通報は、夜明け前の公園だった。
ベンチに、人が座っているように見えた。正確には、人がいた形だけがあった。
コート、ズボン、ブーツ。
すべて着用された状態で、立体を保っている。警棒で触れた瞬間、衣服は崩れ落ちた。中身はなかった。ボタンは留まり、紐も結ばれたままだった。
現場には、奇妙な臭いが残っていた。焦げたオゾンと、腐った百合を混ぜたような匂いだ。体温だけが、まだ衣服に残っていた。
それから、同じことが続いた。
工場の更衣室、走行中のトラム、配給の列。
音もなく、人だけが抜け落ちる。残るのは衣服と、あの匂いだけ。
我々は原因を探した。スパイ、兵器、カルト。だが、何一つ当てはまらなかった。ただ一つ、共通点が浮かび上がった。
消えた人間の多くが、市北端の第4地区、五階建ての古いアパートに関係していた。
そこは、地図の上で次第に空白になっていった。
住民登録はあるのに、出入りする人間が見えない。夜になっても灯りが点かない。
それでも、建物からは音がしていた。
ズズズ、ズズズ。
低く湿った、咀嚼音のような響き。
二月十四日、我々は突入した。
中は異様だった。壁が音を吸い込み、声が反響しない。空気は重く、光の中に半透明の粒子が漂っていた。
一〇一号室で見た。
家族の衣服が、食卓に「座って」いた。誰も触れようとしなかった。触れてはいけないと、全員が直感していた。
廊下で悲鳴が上がった。
駆けつけると、警官三人分の制服と銃だけが床に散らばっていた。
混乱の中、次々と仲間が消えた。
叫びは途中で途切れ、残るのは布と革が落ちる音だけだった。
壁が脈打っていた。
黒い染みのようなものが蠢き、空間が人間の輪郭を塗りつぶしていく。
私は逃げた。
玄関を抜け、雪の冷たさにしがみついて、かろうじて外へ出た。
振り返ったとき、アパートは静かだった。
中で何が起きているのか、もう音はしなかった。
「……それで終わりだと思うだろう」
イワンはそう言って、グラスを置いた。
「だがな、あれは終わっていなかった。あの建物は消えたわけじゃない。ただ、こちら側に残らなくなっただけだ」
私は礼を言い、席を立とうとした。
そのとき、イワンが自分の首元に手をかけた。
「あの日、誰も出られなかった。私もだ」
ボタンを外した瞬間、私は見た。
シャツの奥にあるはずの肉体が、存在しない。
皮膚だけが、空洞を覆っている。
「話し終えたから、もう保てない」
彼の声は、空洞に風が通る音になった。
次の瞬間、彼は崩れ落ちた。
椅子の上に残ったのは、衣服の山だけだった。体温と、あの臭いを残して。
店内が騒然とする中、私は動けなかった。
そのとき気づいた。
匂いが、イワンの服ではなく、もっと近くから来ていることに。
自分の手を見た。
指の感覚がない。皮膚の下で、何かが抜け落ちていく。
イワンは言っていた。
記憶を移す、と。
この現象は、語られることで続く。理解された瞬間に、次の器を探す。
床に膝をついた視界の先で、衣服の襟がこちらを向いているように見えた。
(次は、誰に話そうか)
それが、私自身の声だったのかどうかは、もう分からない。
床の冷たさだけが、最後に残った。
(了)
[出典:680 :本当にあった怖い名無し:2018/10/11(木) 01:20:01.38 ID:V5m0+TmY0.net]