これは広島県の山奥に住む木樵の古老から聞いた話である。
かつて、村の猟師が「猿酒」と呼ばれる奇妙な酒を里に持ち帰ったという逸話が存在する。
猟師は、その酒を秋の山中で偶然発見したと語った。それは、色鮮やかな山ブドウやアケビの果実が、森の静寂の中でひっそりと岩のくぼみに集まっていたものだった。秋の冷たい風が木々の間を吹き抜け、岩肌に影を落とす中、猟師は独りで深い山を歩いていた。その時、ふと甘い香りが風に乗って鼻をかすめた。
足を止め、周囲を見回すと、岩のくぼみに光を受けて輝く果実の塊を見つけた。それはまるで山そのものが贈り物として差し出したかのように見えた。果実は自然に発酵し、透明な琥珀色の液体となり、芳醇な香りを放っていた。猟師は、その液体がただの果実酒とは異なる、何か特別な力を秘めていることを直感的に感じ取った。
彼は透明な琥珀色の液体を満たした水筒を手にし、村人たちにそれを差し出した。彼は透明な琥珀色の液体を満たした水筒を手にし、村人たちにそれを差し出した。その芳醇な香りに村人たちは半信半疑ながらも心惹かれ、少しずつ口に含んでいった。
一口含んだ瞬間、それがただの果実酒ではないことは明らかだった。深く豊潤な甘さが口中に広がり、その香りはどこか山の奥深くに潜む神秘を感じさせるものがあった。その芳香は単なる自然の産物を超えた、何か異質なものを含んでいるようだった。
猟師は「これは山の恵みだ」とにやりと笑いながら語ったが、その場所についての問いには一切答えようとはしなかった。どうしても教えたくない何かがあるかのように、その表情には微かな緊張感が漂っていた。その眼差しには迷いと恐怖が入り混じり、何か得体の知れない存在が背後に迫っているかのようだった。
猟師は口を開きかけるたびに何度も言葉を飲み込み、最後には唇を固く閉ざしたまま、ただ不安げに周囲を見回していた。まるで秘密を明かせば、自分自身に災いが降りかかるとでも感じているかのようだった。
この噂は瞬く間に広がり、「猿酒」は村中で神秘の象徴となった。
人々はこの酒を「山の奇跡」と呼び、いつしか村の生活に深く結びつく存在となっていった。猟師は何度かその「猿酒」を持ち帰るようになり、そのたびに人々は彼を迎え入れ、祝宴を開くことが習わしとなっていった。猟師が持ち帰る猿酒は、村人にとって神秘的な儀式に近い意味を持ち、祝宴は単なる酒宴ではなく、山の神への感謝と畏敬の念を表す場であった。
ある晩、猟師が再び猿酒を持ち帰り、里の人々が集まって祝宴が始まった。その夜の猿酒はいつもよりも香りが強烈で、甘さが際立っていた。その液体はまるで濃縮されたように、独特の光を放っていた。
猟師は普段以上に饒舌であり、豪快に笑いながら杯を次々と勧めた。彼の声にはいつもとは異なる響きがあり、その笑顔もどこか作り物めいていた。人々は酒を楽しげに酌み交わし、その場の雰囲気は次第に和らぎ、会場全体が静かで安らかな空気に包まれていった。
しかし、その静けさは次第に異様なものへと変化し始めた。杯を重ねるごとに、人々の動きは鈍くなり、言葉も少なくなっていった。彼らの瞳はどこか焦点を失い、虚ろな様子を見せ始めた。猟師だけが異様なまでに元気で、饒舌なまま笑い続けていたが、その笑い声さえも次第に不気味に響いてきた。
夜が更けるにつれ、人々は次々と倒れ始めた。最初はふらつき、足元が定まらなくなる者が現れ、続いて膝から崩れ落ちるように倒れていった。彼らの顔は青白く、目には恐怖と混乱の色が浮かび、身体が痙攣し始めた。苦痛に満ちたうめき声が次第に広がり、誰もが何が起きているのか理解できないまま、次々に床に倒れ込んでいった。
息が詰まるような喉のうなりや、苦しげに手を伸ばす動作が見られ、その様子はまるで見えない力に引き倒されるかのようであった。まるで何かに取り憑かれたかのように、彼らは苦しみ、叫びを上げ、その口元からは黒い液体が漏れ出した。その液体は地面に染み込み、不気味な光を放ちながらゆっくりと広がっていった。宴に集まった者たちは皆、命を落としてしまったのである。あの猟師さえも例外ではなかった。
翌朝、宴の場には何も残されていなかった。
人々の死体さえも、まるで跡形もなく消え失せていた。なぜ死体が完全に消え去ったのか、その謎は誰にも解けなかった。ただ、地面には黒く焦げたような痕跡が残り、夜の出来事を物語っていた。あの夜の痕跡はすべて消え失せ、ただ人々の恐怖の記憶だけが残された。その場にいた者たちは、誰もが二度とその場所に近づこうとはしなかった。
村では「猿酒」は山の神の戯れであり、山の精霊が村人を惑わしたものだという噂が広がるようになった。人々はそれを禁忌とし、猟師の話は次第に忌まわしい伝説として語り継がれることとなった。誰もがその恐怖を忘れようとしたが、時折、山から吹く風がかすかにあの夜の香りを運んでくるような気がした。そしてそのたびに、村人たちは背筋に冷たいものを感じた。
古老は最後に静かにこう呟いた。
その目には遠くを見るような焦点の合わない光が宿り、まるで過去の恐ろしい光景を思い出しているかのようだった。彼の声は低く、震えるようでありながらも、その言葉には奇妙な重みがあった。
「本当に猿がそんな酒を作ると思うのか?山で猿を観察してみればわかるはずだが、そんなことはできるはずがない。ありもしないことを信じていると、本物の魔物に付け込まれるのだ。あの猟師も、魔物に取り憑かれていたのだろう。魔物の酒を口にするたびに、あの夜のような恐ろしい事態がすぐそこに潜んでいるのだよ」
古老の目は遠くを見つめ、まるでその恐ろしい光景が今もそこにあるかのように語り続けた。山の中に潜む何か—それが猿酒を作り出し、人々を惑わし、命を奪ったのだとしたら、それは一体何者なのか。古老の話は単なる昔話ではなく、山の神秘と恐怖を体現した現実の一端であったのかもしれない。村人たちがその話を聞くたびに、山への畏敬と恐怖の念は深まり、決して踏み込んではならない境界があることを再認識させられたのだった。
[出典:410 :名無し百物語:2023/10/13(金) 21:40:05.40 ID:XzFIuy8H.net]