私は、何度もあの丘を見上げて育った。
見慣れた風景だったはずなのに、ある日ふと気づいた。鳥居だけが、丘の麓にぽつんと立っている。境内も本殿もない。ただの石廟が、鬱蒼とした木立の中にうずくまるように在るだけだ。
最初に奇妙だと思ったのは、小学校の遠足だった。先生が、「あそこは行っちゃいけません」と指差したその先に、赤茶けた柵がめぐらされていた。よく見れば、鉄柵には役場の名前で「火気厳禁」「立ち入り禁止」と大書きされた札が下がっていた。
「火を使っちゃいけない神社なんて、変じゃないか?」
誰かがそう言った。私も、そう思った。でも先生は曖昧に笑って、それ以上は語らなかった。
やがて私は、大人になり、町の郷土資料を読むようになった。あの丘が、元は古墳であること。丘の中には穴があり、そこに何かが埋められていること。人の手で築かれたわけではなく、天然の丘をくり抜いて作られたものだということ。
そこまで読んで、あることを思い出した。
中学時代、クラスにいた転校生――今村という男がいた。人懐っこくもなければ、不良でもない、どこにでもいる地味な奴だった。ある日、彼が死んだ。神社の鳥居の前で、うつ伏せに倒れていたという。
煙草の吸殻が一本、彼の横に落ちていた。
口から血を流していたが、火傷も外傷もなく、死因は不明とされた。火は完全に消えていた。だが妙な噂が、町に流れた。
「火を持ち込んだから呪われた」
そう、呟いていたのは、町の古老たちだった。
調べれば調べるほど、この神社の異様さが浮かび上がる。あそこは元々、国津神――古の地霊たちの居城だった。天から来た神々、いわゆる天孫たちは、その丘を奪おうとした。だが、次々に死者が出た。奴婢が死に、工人が死に、ついには天孫の血を引く者までもが倒れた。
恐れおののいた天孫は巫女を呼び、占わせた。
巫女は、息絶える間際にこう言ったという。
「この地は、欺かれ、焼かれ、虐げられた神々の怒りに満ちている。城を返し、立ち去れ」
天孫たちは逃げ去った。そして、国津神たちの遺体を丘に納め、廟を建て、柵を巡らせた。二度と怒りを買わぬよう、火を禁じ、伐採を禁じた。
それでも、時代が変わるごとに愚かな者たちが現れた。城を建てようとし、薪を切り出そうとした。だが、誰もが死んだ。名も残らぬまま、墓と化した。
私は、知ってしまったのだ。この神社には氏子がいる。年に一度、鳥居の鉄柵を開けて楽を奏でる。酒を供え、儀を行う。彼らは、国津神の末裔だという。族滅したはずなのに? そう思ったが、こう記されていた。
「他の神に嫁いだ女が一人。彼女の血を引く者たちが、祟りを鎮めるために選ばれた」
つまり、赦しを請うために生かされ、神域を守るために封じられた血族。逃げることは許されない。
大戦中、この地の木材を徴用する命が軍から下った。その途端、役所の職員が原因不明の病で倒れた。軍人が視察に訪れ、二人とも急死した。工事関係者にも次々に死人が出た。
慌てた町は、軍の命令を無視して工事を中断し、丘の周囲に木柵を巡らせた。
その話を最後に語ってくれたのは、町の役場に勤める従兄だった。
「いまだに、誰もあそこに入れないんだ。たとえ消防でもな」
私はその時、ある考えが浮かんだ。
火は禁じられている。だが……その理由は、単に怒りを買わぬためだけか?
火を近づけた者は死ぬ。つまり、彼らは火を「求めている」のではないか?
あの場所に囚われた神々は、いまだ焼かれた記憶の中で呻いている。だから、誰かが火を持てば、それに引き寄せられ、取り込もうとするのではないか。
焚かれた炎の中に、自らの最期をなぞるように。焼かれた皮膚、剥がれ落ちる髪、骨の音、煙の匂い。
私は今、丘のふもとに立っている。
手には、百円ライター。古ぼけたベンチの上に腰をかけ、煙草に火を点ける。
この煙が、誰かを呼ぶのなら……私はその声を聞いてみたいと思ったのだ。
彼らが本当に怒っているのか、それとも……ただ、忘れられたくないだけなのか。
煙が、真っ直ぐ丘の上へ昇っていく。
その時、風もないのに、煙草の火がふっと消えた。
次の瞬間、背後から、誰かが囁いた。
「……おかえり」
[出典:30 :あなたのうしろに名無しさんが……:2003/05/29 04:07]