山にまつわる怖い話 柳田國男 民俗

【柳田國男】山の人生:13【青空文庫・ゆっくり朗読】

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一三 神隠しに奇異なる約束ありしこと

神隠しからのちに戻ってきたという者の話は、さらに悲しむべき他の半分の、不可測なる運命と終末とを考える材料として、なお忍耐して多くこれを蒐集しゅうしゅうする必要がある。社会心理学という学問は、日本ではまだ翻訳ばかりで、国民のための研究者はいつになったら出てくるものか、今はまだすこしの心当こころあてもない。それを待つ間の退屈を紛らすために、かねて集めてあった二三の実例をしおりとして、自分はほんの少しばかり、なお奥の方へ入りこんで見ようと思う。最初に注意せずにおられぬことは、我々の平凡生活にとって神隠しほど異常なるかつ予期しにくい出来事は他にないにもかかわらず、単に存外に頻繁ひんぱんでありまたどれここれもよく似ているのみでなく、別になお人が設けたのでない法則のごときものが、一貫して存するらしいことである。例えば信州などでは、山の天狗に連れて行かれた者は、跡に履物はきものが正しくそろえてあって、一見して普通の狼藉ろうぜき、または自身で身を投げたりした者と、判別することができるといっている。そんなことは信じえないと評してもよいが、問題は何故に人がそのようなことを言い始めるに至ったかにある。
或いはまた二日とか三日とか、一定の期間さがしてみて見えぬ場合に、始めてこれを神隠しと推断し、それからはまた特別の方法を講ずる地方もある。七日を過ぎてなお発見しえぬ場合にもはや還らぬ者としてその方法を中止する風もある。或いはまた山の頂上に登って高声に児の名を呼び、これに答うる者あるときは、その児いずれかに生存すと信じて、かろうじて自ら慰める者がある。八王子の近くにも呼ばわり山という山があって、時々迷子まいごの親などが登って呼び叫ぶ声を聴くという話もあった。町内の附合つきあいまたは組合の義理と称して、各戸総出そうでをもって行列を作り、一定の路筋みちすじを廻歴した慣習のごときも、これを個々の事変に際する協力といわんよりは、すこぶる葬礼祭礼などの方式に近く、しかも捜査の目的に向かっては、必ずしも適切なる手段とも思われなかった。この仕来しきたりには恐らくは忘却せられた今一つ根本の意味があったのである。それを考え出さぬ限りは、神隠しの特に日本に多かった理由もわからぬのである。

全体にこの実例はおいおいと少なくなって、今では話ばかりがなお鮮明に残っている。神隠しという語を用いぬ地方もすでにあるが、狐にだまされて連れて行かれるといいまたは天狗にさらわれるといっても、これを捜索する方法はほぼ同じであった。単に迷子と名づけた場合でも、やはりかね太鼓たいこたたき方は、コンコンチキチコンチキチの囃子はやしで、芝居で「釣狐つりぎつね」などというものの外には出でなかった。しかもそれ以外になお叩く物があって、各府県の風習は互いによく似ていたのである。例をもって説明するならば、北大和やまとの低地部では狐にだまされて姿を隠した者を捜索するには、多人数で鉦と太鼓を叩きながら、太郎かやせ子かやせ、または次郎太郎かやせと合唱した。この太郎次郎は子供の実名とは関係なく、いつもこういってんだものらしい。そうして一行中の最近親の者、例えば父とか兄とかは、一番後にさがってついて行き、一升桝いっしょうますを手に持って、その底を叩きながらあるくことにまっており、そうすると子供は必ずまずその者の目につくといっていた(『なら』一八号)。紀州田辺地方でも、鉦太鼓を叩くとともに、くしの歯をもって桝の尻をいて、変な音を立てる風があった(雑賀君報)。播磨はりま印南いんなん郡では迷子を捜すのに、村中松明たいまつをともし金盥かなだらいなどを叩き、オラバオオラバオと呼ばわってあるくが、別に一人だけわざと一町ばかり引き下って桝を持って木片などで叩いて行く。そうすると狐は隠している子供を、桝を持つ男のそばへ[#「そばへ」は底本では「そぱへ」]ほうり出すといっていた。同国東部の美嚢みの郡などでは、迷子は狐でなく狗賓ぐひんさんに隠されたというが、やはり捜しにあるく者の中一人が、その子供の常に使っていた茶碗ちゃわんを手に持って、それを木片をもって叩いてあるいた。越中魚津でも三十年余の前までは、迷子を探すのに太鼓と一升桝とを叩いてあるいた。桝の底を叩くと天狗さんの耳が破れそうになるので、捕えている子供を樹の上から、放して下すものだと信じていたそうである(以上『土の鈴』九および十六)
右のごとき類例を見て行くと、誰でも考えずにおられぬことは、今も多くの農家で茶碗を叩き、また飯櫃めしびつや桝の類を叩くことを忌む風習が、ずいぶん広い区域にわたって行われていることである。何故にこれを忌むかという説明は一様でない。叩くと貧乏する、貧乏神がくるというもののほかに、この音を聴いて狐がくる、オサキ狐が集まってくるという地方も関東には多い。多分はずっと大昔から、食器を叩くことは食物を与えんとする信号であって、転じてはこの類の小さな神を招きおろす方式となっていたものであろう。従って一方ではやたらにその真似まねをすることを戒め、他の一方ではまたこの方法をもって児を隠す神をんだものと思う。俵藤太たわらとうだが持ってきた竜宮の宝物に、取れども尽きぬ米の俵があって、のちに子孫の者がその俵の尻を叩くと白い小蛇こへびが飛びだして米が尽きたと称するのも、もし別系統でなければ同じ慣習の変化だとみてよろしい。いずれにしても迷子の鉦太鼓が、その子に聴かせる目的でなかったことだけは、かやせ戻せというとなごとからでも、推定することが難くないのである。

加賀の能美のみ郡なども、天狗の人を隠した話の多かったことは、近年刊行した『能美郡誌のみぐんし』を見るとよくわかる。同じ郡の遊泉寺村では、今から二十年ほど前に伊右衛門という老人が神隠しにった。村中が手分けをして探しまわった結果、隣部落と地境じざかいの小山の中腹、土地で神様松というかさの形をした松の樹の下に、青い顔をしてすわっているのを見つけたという。しかるに村の人たちがこの老人を探しあるいた時には、さば食った伊右衛門やいと、口々に唱えたという話だが、これはいつでもそういう習わしで、神様ことに天狗は最も鯖が嫌いだから、こういえば必ず隠した者を出すものと信じていたのである(立山徳治君談)。琉球で物迷ものまよいと名づけて物に隠された人を探すのにも、部落中の青年は手分けをして、森や洞窟などの中を棒を持ち銅鑼どらを叩き、どこそこの誰々やい、赤豆飯あかまめまいを食えよと大きな声で呼びまわるという。よく似た話だがこれも神霊がこれをにくむのか否かは分らぬ。内地の小豆飯はむしろこの類の神の好むところと考えられている。鯖という魚の信仰上の地位は、つまびらかに調べてみる必要があるのだが、今までは誰も手をつけていなかった。

不思議な事情からいなくなってしまう者は、決して少年小児ばかりではなかった。数が少なかったろうが成長した男女もまた隠され、そうして戻ってくる者も甚だわずかであった。ただし壮年の男などはよくよくの場合でないと、人はこれを駆落ちまたは出奔しゅっぽんと認めて、神隠しとはいわなかった。神隠しの特徴としては永遠にいなくなる以前、必ず一度だけは親族か知音の者にちらりとその姿を見せるのが法則であるように、ほとんといずれの地方でも信じられている。盆とか祭の宵とかの人込みの中で、ふと行きちがって言葉などを掛けて別れ、おや今の男はこのごろいないといって家で騒いでいたはずだがと心づき、すぐに取って返して跡を追うて見たが、もうどこへ行っても影も見えなかった、という類の例ならば方々に伝えられている。これらは察するところ、樹下にきちんと脱ぎそろえた履物などと一様に、いかに若い者が気紛きまぐれな家出をする世の中になっても、なおその中には正しく神に召された者がありうることを我々の親たちが信じていようとした、努力の痕跡こんせきとも解しえられぬことはない。
西播怪談実記せいばんかいだんじっき』という本に、揖保いぼ新宮しんぐう村の民七兵衛、山にまき採りに行きて還らず、親兄弟歎き悲みしが、二年を経たる或る夜、村のうしろの山にきて七兵衛が戻ったぞと大声に呼ばわる。人々よろこび近所一同山へ走り行くに、ふもとに行きつくころまではその声がしたが、登ってみるとはや何処どこにもいなかった。天狗の下男にでもなったものかと、村の内では話し合っていたが、その後この村から出て久しく江戸にいた者が東海道を帰ってくるみちで、興津の宿とかで七兵衛に出逢った。これも互いに言葉を掛けて別れたが家に帰って聞くとこの話であった。それからはついに風のたよりもなかったということである。すなわちたった一度でも村の山へきて呼ばわらぬと、人はやはり駆落ちと解する習いであった故に、自然にこのような特徴が出てきたのである。
九桂草堂随筆きゅうけいそうどうずいひつ』巻八には、また次のような話がある。広瀬旭荘ひろせきょくそう先生の実験である。「我郷わがさと(豊後日田ひた郡)に伏木という山村あり。民家の子五六歳にて、夜きてまず。戸外に追出す。其傍そのかたわらに山あり。声※(二の字点、1-2-22)やや遠く山に登るやうに聞えければ驚きて尋ねしについに行方知れず。のち十余年にして、我同郷の人小一と云ふ者、日向の梓越あずさごえと云ふ峯を過ぐるに、ふもとより怪しきたけ七八尺ばかり、満身に毛生じたる物のぼり来る。大いに怖れ走らんとすれども、体しびれて動かず。其物近づきて人語を為し、なんじいづくの者なりやと問ふ。答へて日田といふ。其物、然らば我郷なり。汝伏木の失せたることを聞きたりやとふ。其事は聞けりと答ふ。其物、我即ち其児なり。其時我今つかふる所の者より収められて使役し、今は我も数山の事を領せりと謂ひて、ふところより橡実とちのみにて製したる餅様もちようの物を出し、我父母存命ならば、これを届けてたまはれと謂ふ。いずれの地に行きたまふかと問ふに、これより椎葉山しいばやまに向ふなりと言ひて別れ、それよりみち無き断崖に登るを見るに、そのはやきこと鳥の如しといふ。話は少年の時小一より聞けり。是れ即ち野人なるべし。」

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