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中編 師匠シリーズ

師匠シリーズ 054話 人形(1) (2)

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054 師匠シリーズ「人形1」

人形にまつわる話をしよう。

大学二回生の春だった。

当時出入りしていた地元のオカルト系フォーラムの常連に、みかっちさんという女性がいた。

楽しいというか騒がしい人で、オフ会ではいつも中心になってはしゃいでいたのであるが、その彼女がある時こう言うのである。

「今さ、友だちとグループ展やってるんだけど、見に来ない?」

大学の先輩でもある彼女は、(キャンパスで会ったことはほとんどないが)美術コースだということで絵を描くのは知っていたが、まだ作品を見せてもらったことはない。

「いいですねえ」と言いながら、ふと周囲のざわめきが気になった。

居酒屋オフ会の真っ只中に、どうして俺だけを誘ってきたのか。

確かによくオフでも会うが、それほど彼女自身と親しいわけでもない。

フォーラムの常連グループの末席に加えてもらっているので、自然に会う機会が増えるという程度だ。

なにか裏があるに違いないと嗅ぎつける。

追求するとあっさりゲロった。

「gekoちゃんの彼氏を連れてきて」と言うのだ。

gekoちゃんとは、その常連グループの中でも大ボス的存在であり、その異様な勘の良さで一目置かれている女性だった。

その彼氏というのは、俺のオカルト道の師匠でもある変人で、そのフォーラムには『レベルが違う』とばかりに、鼻で笑うのみで参加をしたことはなかった。

もっとも彼は、パソコンなど持っていなかったのであるが。

その師匠を連れてきてとは、一体どういう魂胆なのか。

「いやあ、そのグループ展さあ、五日間の契約で場所借りてて、今日で三日目だったんだけど……なんか変なんだよね」

聞くところによると、絵画作品を並べているギャラリーで、誰もいないはずの場所から誰かのうめき声が聞こえたり、見物客の気分が急に悪くなったりするのだそうだ。

「昨日なんてさ、終わって片付けして掃除してたらさ、床に長くて黒い髪の毛がやたら落ちてんの。お客さんっていっても、わたしの友だちとかばっかだし、たいていみんな髪染めてんのよ。先生とかオッサン連中は、そんな髪長くないしね。気味悪くてさあ」

みかっちさんは演技過剰な怖がり方で肩を抱えてみせた。

「こういう時頼りになるgekoちゃん。この間からなんか実家に帰ってていないし。キョースケは東京に出て行っちゃったし」

肘をついてブツブツと言う。

「というワケで、噂のgekoちゃんの彼氏しかいないワケよ」

みかっちさんは師匠と直接会ったことはないようだが、やはり噂は漏れ聞いているみたいだ。

どんな噂かはさだかではないが。

「とにかくコレ、案内状。明日来てよね。私、明日は朝から昼まで当番だから、昼前に来て」

ずいぶん強引だ。「明日は平日なんですけど」と言うと、「めったに講義出ないんでしょ」と小突かれた。

翌日、一応師匠を誘うと、「面白そうだ」とノコノコついて来た。

二人で案内状を見ながら街を歩きたどり着いた先は、老舗デパートのそばにある半地下の、こじんまりとしたギャラリーだった。

少し外に出ればアーケード街があり、平日の昼でも人通りが絶えないのであるが、ここはやけに静かで、落ち着いた雰囲気が漂っていた。

中に入ると、学生らしきショートボブの女性が、「いらっしゃいませ」と笑顔をこちらに向けてくれた。

みかっちさんと同じ美術コースの人だろうか。

暗めの照明に、壁中に大小様々な絵が飾られた店内が照らし出されている。

「あ、ホントに来たんだ」

呼んでおいてホントもなにもないと思うが、みかっちさんがギャラリーの奥から出てきた。

そして師匠を見るなり目を見開いて呟く。

「ちょっと、gekoちゃん。見せないワケだわ……」

師匠はそれを無視して、視線をギャラリー内に走らせる。

ここに来るまで冷やかし気味だった雰囲気が少し変化していた。

「ここって何人ぐらいで借りてるの」

師匠の問いかけに、みかっちさんは「六人」と答える。

「コースの仲間と、後輩。学割が効くんですよ、ココ」

「で、自分たちで描いた絵を期間中、置いてもらうわけか」

「そうです。で、六人で順番に当番決めてお客様対応」

「ふうん」

師匠はもう一度、視線を一回りさせる。

「あ、そうそう。わたし犯人っぽいのわかっちゃったかも。こっちこっち」

みかっちさんは俺たちを、ギャラリーの奥まった一角に案内した。

それまでバスケットのフルーツなど静物画を中心に並んでいたのに、一つ明らかに異質な絵が出現した。

それは人形の絵だった。

全体的に青く暗い背景の中、オカッパ頭の人形の絵が、まるでヒトの肖像画のように描かれている。

明らかに人間をデフォルメしたものではなく、写実的な表現で、一目見て人形と分かるように出来ている。

黒髪の頭に赤い着物。それらが妙に煤けた感じで、小さな額に納まっていた。

「ね」とみかっちさんは小さな声で言った。

確かに不気味な絵だ。市松人形というのだろうか。可愛らしい人形を描いた絵とは少し言い難い。

何故かは自分でもよくわからないが、人間ではないものが人間を擬してそこにいるような嫌悪感があった。

「これは誰の絵?」

「わたし」

みかっちさんは後ろ頭をわざとらしく掻く。困ったような表情も浮かべている。

「モデルがあるね」

「……友だちの持ってる人形。すっごく古いの。ちょっと興味があって、描かせてもらったんだけど」

伏目がちな童女のふっくらした顔が、不気味な翳を帯びている。

胸元を締める浅葱色の帯が所々剥げてしまって、どこか哀れな風情だった。

師匠は真剣な表情で絵に顔を近づけ、何事かぶつぶつ言っている。

「やっぱこれかなあ。どうしよう。結構気に入ってるんだけど」

「なにか曰くがある人形なんですか」

「あるよ。すっごいの。でもこれは、タカガわたしが描いた絵だし、全然気にしてなかったんだよね」

「その曰くって、どんなのですか」

俺がそう口にしたところで師匠が顔を離し、難しい顔で「逆だ」と呟いた。

「え?」と訊くと、絵から目を逸らさないまま「いや」と言い淀み、首を振ってから、「やっぱり、よくわからないな。これが原因だとしても、ただの媒体にすぎない。本体の方を見たいな」と言う。

みかっちさんは「う~ん」と言ったあと、ニッと唇の端をあげた。

「込み入った話だと、ここじゃちょっとね。近くの喫茶店で話さない?」

師匠と俺は頷く。みかっちさん、最初は敬語気味だったのに、いつの間にか師匠にもタメ口だ。

「あ、でも交替要員が来るまでまだ結構時間あるから、絵でも見てて」

来た時は俺たちしか居なかったのに、いつの間にかもう一人初老の男性がやって来て、ショートボブの女性が応対している。

俺はギャラリーの真ん中に立って、目を閉じてみた。精神を集中し、違和感を探る。

するとやはり、人形の絵がある方向になにか嫌な感じがする。

照明があたり難いせいなのかも知れないが、あの辺は妙に暗い気がする。

「ねえミカ、友だち?なに熱心に見てたの」

ショートボブの女性が声をかける。

「うん。人形の絵をちょっとね」

「人形の絵?」

首をかしげる女性に、みかっちさんはなんでもないと手を振った。

俺と師匠は一通り絵の説明を受けながらギャラリーを見ていったが、素人目には上手いのか下手なのかもよくわからない。

ただモダンな感じの難解な絵はなく、わりとシンプルで写実的な作品が多かった。

「見て見てこれ、あたしがモデル」などと言って裸婦の絵を指さしなど、テンションの高いみかっちさんとは裏腹に、俺たちは絵画鑑賞などすぐに飽きてきてしまった。

特に師匠など露骨で、ショートボブの女性が熱心に紹介してくれているのに、気乗りしない生返事ばかり。

そして少しイライラしてきたらしい女性が、「絵はあまりお好きじゃないみたいですね」と言うと、それに応えて思いもかけないことを口にした。

「絵なんてようするに、すごく汚れた紙だ」

絶句する女性に畳み掛けるように続ける。

「見るくらいにしか役に立たない」

平然と言ってのけた師匠をさすがにまずいと思った俺が、むりやり引きずって外に出した。

みかっちさんには、「近くの喫茶店にいますから」と言い置いて。

ザワザワと耳障りな雑踏の音が飛び込んでくる。

やはりああした所は、鑑賞中に気が紛れない様に防音が効いているのだろう。

俺は師匠を問い詰めた。

「なんであんなこと言うんです。人がせっかく描いた作品に」

「別に貶したつもりはなかったんだけどな」

「自分が好きなものをバカにされたら、誰だって怒りますよ」

師匠は「う~ん」と言って顎を掻く。

「オカルトの方がよっぽど役に立たないでしょ」

俺は自分自身への自虐も込めて師匠を非難した。

すると師匠は、急に遠くを見るように目の焦点をさ迷わせ、横を向いてじっとしていたかと思うと、こちらへゆっくりと向き直って言った。

「役に立たないものは、愛するしかないじゃないか」

二人の間の足元に、駐車禁止の標識の影が落ちていた。

俺は一瞬なんと返していいかわからず、ただ彼の目を見ていた。

その言葉は今では、師匠の好きだったある劇作家の言葉だと知っている。

あるいは、戯れに口にしたのかも知れない。それとも、彼の深層意識から零れ落ちたのかも知れない。

けれどその時の俺は、怒ると言うより呆れていて、そんな言葉をくだらないと思い、なんだそれと思い、そしてそれからずっと忘れなかった。

喫茶店で軽食をとりながら三十分ほど待ったところで、みかっちさんがやってきた。

「ごめーん、遅くなったあ」などと軽い調子で席に着き、さっきの師匠の失言などまるで気にしてない様子だった。

 

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054 師匠シリーズ「人形2」

みかっちさんはホットサンドを注文してから、さっそく本題に入る。

「あの絵の人形って、高校時代の友だちの持ち物なんだけど、なんか、死んだおばあちゃんがくれた、凄い古いヤツなんだって」

その友だちは礼子ちゃんといって、今でも良く一緒に遊ぶ仲なのだそうだが、最近少し様子がおかしかったと言う。

ある時、彼女の家に遊びに行くと、「なんかわかんないけど、江戸時代くらいの和服の女の人が何人かいて、真ん中の人が、その人形を抱いて座ってる写真」

を見せられたそうで、自分はその人形を抱いている女性の生まれ変わりなのだ、と言い出したらしい。

聞き流していると怒り出し、その人形が家にあると言って、どこからか引っ張り出してきて、 それを抱きしめながら「ねっ?」と言うのだ。

写真の女性と似てるとも思えなかったし、どう言っていいのかわからなかったが、そんな話自体は嫌いではないので、そういうことにしてあげた。

それに、そんな古い写真と人形が、共にまだ現存していたことに妙な感動を覚えて、「絵に描きたい」と頼んだのだそうだ。

「その絵があれか」

師匠がなにごとか気づいたように、片方の眉を上げる。

なにかわかったのかと次の言葉を待ったが、なにもなかった。

みかっちさんはコーヒーにシュガースティックを流し込みながら、珍しく強張った表情を浮かべた。

「でね、それから何日か経って、あ、今から三週間くらい前なんだけど、その礼子ちゃんとか、高校時代の友だち四人で、温泉旅行したんだけど」

少し言葉を切る。その口元が微かに震えている。

「電車に乗ってさ、最初四人掛けの席が空いてなくて、二人席にわたしと礼子ちゃんとで座ってたんだ。ずっとおしゃべりしてたんだけど、一時間くらいしてからなんか、持ってくるって言ってた本の話になってさ。礼子ちゃんがバッグをゴソゴソやってて、『あっ間違えた』って言うのよ。なに~?別の本持って来ちゃったの?って聞いたらさ」

唾を飲み込んでから続ける。

「ズルッてバッグからあの人形が出てきて、『本と間違えちゃった』って……」

俺はそれを聞いて、さっきのギャラリーでは感じられなかった、鳥肌が立つような感覚を覚えた。

「別に頭がおかしい子じゃないのよ。その旅行でも、それ以外は普通だったし。ただ、なんなんだろ、あれ。人形って魂が宿るとかいうけど」

それに憑りつかれたような……
みかっちさんが続けなかった言葉の先を頭の中で補完しながら、俺は師匠を見た。

腕組みをして真剣に聞いているように見える。

やがておもむろに口を開く。

「その人形を描いた絵が、さっきのグループ展での、不思議な出来事の元凶ということか」

「だよね、どうかんがえても」

みかっちさんは「どうしよ」と呟いた。

「絵を処分しても解決したことにはならないな。勘だけど、その人形自体をなんとかしないと、まずいことになりそうな気がする」

師匠は身を乗り出して続けた。

「その子の家にはお邪魔できる?」

「うん。電話してみる」

みかっちさんは席を立った。

やがて戻って来ると、「今からでも来ていいって」と告げた。

そうして俺たちは三人でその女性、礼子さんの家に向かうことになったのだった。

喫茶店から出るとき、師匠は俺に耳打ちをした。

「面白くなってきたな」

俺は少し胃が痛くなってきた。

みかっちさんの車に乗って、走ること十五分あまり。

街の中心からさほど離れていない住宅地に、礼子さんの家はあった。

二階建てで、広い庭のある結構大きな家だった。

チャイムを鳴らすと、ほどなくして黒い髪の女性が出てきて、「あ、いらっしゃい」と言った。

案内された客間に腰を据えると、用意されていたのか、紅茶がすぐに出てきた。

スコーンとかいうお菓子も添えられている。

「いま家族はみんな出てるから、くつろいでくださいね」

言葉遣いも上品だ。こういうのはあまり落ち着かない。

「大学のお友だちですって?ミカちゃんが男の人をつれてくるのは珍しいね」

俺たちはなにをしに来たことになっているのか、少し不安だったが、「ああ、写真ね。今持ってくる」と言って、スカートを翻しながら部屋から出て行った様子に安堵する。

みかっちさんが小声で、「とりあえず、古い写真マニアっぽい設定になってるから」。

やっぱり胃が痛くなった。

戻ってきた礼子さんは、「死んだ祖母の形見なんです」と言いながら、木枠に納められた写真をテーブルに置いた。

色あせた白黒の古い写真をイメージしていた俺は首を傾げる。

ガラスカバーの下にあるそれは妙に金属的で、紙のようには見えなかったからだ。

しかしそこには、着物姿の三人の女性が並んで映っている。

モノクロームの写りのせいか年齢は良く分からないが、若いようにも見えた。

椅子に腰掛け、何故かみんな一様に目を正面から逸らしている。

そして真ん中の女性が膝元に抱く人形には、確かに見覚えがあった。あの絵の人形だ。

「私の祖母の家は、明治から続く写真屋だったそうです。この写真は、そのころの家族を撮ったもので、たぶんこの中に、私のひいひいおばあちゃんがいるそうです」

礼子さんは、うっとりとした表情で装飾された木の枠を撫でながら、「真ん中の人かな」と言った。

師匠は食い入るような目つきで、顔を近づけて見ている。

おお、マニアっぽくていいぞと思っていると、彼は急に目を閉じ、深いため息をついた。
「これは銀板写真だね」

目をゆっくりと開いた師匠の言葉に、礼子さんは軽く首を傾げた。わからないようだ。

俺もなんのことかわからない。

「写真のもっとも古い技術で、日本には江戸時代の末期に入ってきている。銀メッキを施した銅板の上に、露光して撮影するんだ。露光には長くて二十分も時間がかかるから、像がぶれないように長時間同じ姿勢でいるために、こうして椅子に座り……」

と言いながら師匠は、着物の女性の髷を結った頭部を指さす。頭の上になにか棒のような器具が出ている。

「こういう、首押さえという道具で固定して撮る。ただこの銀板写真も、次世代の技術である湿板写真の発明によって、あっという間に廃れてしまう。長崎の上野彦馬とか、下田の下岡蓮杖なんかは、その湿板写真を広めた職業写真家の草分けだね。明治に入ると乾板写真がそれにとって代わり、日本中に写真ブームが広がる。その中で出てきたのが、写真に撮られると魂を抜かれるだとか、真ん中に写った人間は早死にするだとかいう噂。それから、そこにいないはずの人影が写った“幽霊写真”。今の心霊写真の元祖は、明治初期にはすでに生まれていて、そのころからその真偽が論争の的になっている」

「ほー」という感心したような吐息が、女性陣から漏れる。

本当に古い写真マニアだったのか、この人は。

いや、というよりは、やはり心霊写真好きが高じて、というのが本当のところだろう。

「というわけで銀板写真は、明治の写真屋の技術ではないんだ。だからこれは、商売道具で撮影したものではなく、回顧的、もしくは技術的興味で撮られた写真だろう。像も鮮明だから、露光時間が短縮された、改良銀板写真技術のようだね」

やはり感じたとおり、材質は紙ではなかった。銅版なのか。

俺はしげしげと三人の女性を見つめる。百年も前の写真かと思うと不思議な気持ちだ。

本当に写真は時間を閉じ込めるんだな、と良くわからない感傷を抱いた。

「魂を抜かれるって、聞いたことがありますね。真ん中で写っちゃいけないとかも」

礼子さんの言葉に師匠は頷きかける。

「うん。それは当時の日本人にとっては、切実な問題だったんだ。鏡ではなく、まるで己から切り離されたように自分を平面に写し込むこの未知の技法を、どこか忌まわしいもののように感じていたんだろう。この写真の女の人たちが目を背けているのも、その頃の俗習だね。視線を写されるのは不吉だとされていたらしい」

本来の目的を忘れて師匠の話に耳を傾けていると、そこから少し口調が変わった。

「この、真ん中の女性が抱いている人形もそうだ」

みかっちさんの肩も緊張したように、わずかに反応する。

「真ん中の人間の寿命が縮むというのは、明治時代、日本中に広がっていた噂でね。今で言うミーム、いや都市伝説かな。そんな噂を真に受けて不安がる女性客に、写真屋が手渡すのがこれだよ」

師匠は女性の膝の人形を指さす。

「人形を入れれば、全部で四人。真ん中はなくなる。それに椅子に斜めに腰掛けることで、人間ではなく膝の上の人形が、正確に写真の中心にくるような配置になっている。つまり、寿命が縮む役の身代わりということだ。 そうした写真の持つ不吉さを、人形に全部被せていたんだ」

ゾクゾクしはじめた。

身代わり人形だったのだ。“穢れ”の被り役としての。

恐らく写真屋は、同じ人形を使い続けただろう。

その頃、写真を撮るような客は、上流階級に属している者ばかりのはずだ。

そんな客に、使い捨ての安っぽい人形を持たせる訳にもいくまい。

つまり、こういう上質な市松人形のようなものが、ずっとその役目を負い続けるのだ。

意思を持たないものに、悪意を被せ続ける……

そのイメージに俺はぞっとした。

何年何十年という時間の中で穢れは、悪意は集積し、この人形の内に汚濁のように溜まっていく。そして……

シーンと静まる家の中が、やけに寒く感じられた。

「ちょっと、なんでそういうこと言うのよ」

礼子さんの口から鋭く尖った言葉が迸った。

「この子は、私のひいひいおばあちゃんの大切な人形よ。そんな道具なんかじゃない。だってずっと大事にされて、今の私にまで受け継がれたんだから。見ればわかるわ」

そう捲くし立てて礼子さんは、凄い勢いで部屋の出口へ向かった。

唖然として見送るしかない俺の横で、師匠は叫んだ。

「そんなものが実在すればね」

一瞬、礼子さんの頭がガクンと揺れた気がしたが、彼女はそのまま部屋を飛び出していった。

「どういうこと?」と、みかっちさんが訝しそうに眉を寄せる。

「まあ見てな」

師匠は余裕の表情で、革張りのソファに深く体を沈めた。

俺は写真にもう一度目を落とし、人形を良く観察する。

色こそついていないが、やはりあの絵と全く同じ人形のようだ。

髪型や表情、帯や着物の柄も同じに見える。師匠はこの写真からなにかわかったのだろうか。

やがて静まり返っていた家の中に、女性の悲鳴が響き渡った。

全員腰を上げ客間を出る。スリッパの音がバラバラと床を叩いた。

みかっちさんが先導して、一階の奥の部屋へ足を踏み入れると、広々とした和室に礼子さんの後姿が見えた。

「いないのよ。あの子が」

屈み込み、取り乱した声で畳を爪で引っ掻いている。

和箪笥など古い調度品が並ぶ中、奥に床脇棚があり、その上に空のガラスケースが置かれていた。

ガラスケースの中には、薄紫色の座布団のような台座だけがぽつんと残されていて、丁度あの人形が納まる大きさのように思えた。

「誰なの。どこへやったの」と呻く様に繰り返している礼子さんに、みかっちさんが駆け寄り、「落ち着いて」と背中をさする。

次の瞬間、バン、という大きな音がして横を見ると、師匠が後ろ手で壁を叩いた格好のまま、険しい顔つきで女性二人を睨んでいる。

「落ち着くのは、キミもだ」

そう言いながら床脇棚に近づき、ガラスケースを持ち上げる。台座を触り、その指を二人に見せ付けた。

「この埃は、少なくとも何年か、ここに人形なんか置かれていなかったことの証だ。あの絵を見た時からおかしいと思っていたが、写真を見て確信した。人形なんか、この家にはないじゃないかと」

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