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中編 師匠シリーズ

師匠シリーズ 033話 黒い手

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033 師匠シリーズ「黒い手」

その噂をはじめに聞いたのはネット上だったと思う。

地元系のフォーラムに出入りしていると、虚々実々の噂話をたくさん頭に叩きこまれる。どれもこれもくだらない。

その中に埋もれて『黒い手』の噂はあった。

黒い手に出会えたら願いがかなう
そのためには黒い手を一週間持っていないといけない
たとえどんなことがあっても

「バッカじゃないの」

上記の噂を話したところのある人の評である。

オカルト道の師匠にそんなあっさり言われるとがっかりする。

「まあ不幸の手紙の亜種だな。どんなことがあってもって念押ししてるってことは、一週間のあいだになにか起こりますよってことだろ」

チェーンメールが流行りはじめた頃だったが、『××しないと不幸になる』というテンプレートなものとは少し毛色が違う気がして、僕の印象に残っていたのだが、師匠はこういうのはあまり好きではないようだった。

しかし、しばらくのあいだ、僕の頭の片隅に『黒い手』という単語がこびりついていた。

ありがちなチェーンメールと一線を画すのは、そのスタート契機だ。

『このメールを読んだら』ではなく、『黒い手に出会えたら』。

つまり、話を聞いた時点で強制的にルールの遵守を求められるのではなく、契機が別に設定されているのだ。

怖がろうにもその契機に会えない。

『黒い手に出会えたら』

僕は出会いたかった。

『黒い手を手に入れた』という一文をあるスレッドで見たとき、僕の心は逸った。

普段は行かない部屋に出入りしていたのは、『地元の噂』を語る場所だったから。

『黒い手』の噂を聞けるかも知れない、という可能性のためだ。

マニアックなオカルト系フォーラムにどっぷり浸っていた僕には、少し程度が低すぎる気がして敬遠していたのだが……

『見せて見せて』というレスがつき、しばらくして『いーよ』という返事があった。

その音響というハンドルネームの人物は、何度かオフ会を仕切ってるような行動派らしく、『じゃ、明日の土曜日にいつものトコで』という書き込みで、『黒い手オフ』が決定した。

新参者の僕は慌てて過去ログを読み返し、いつものトコが市内のファミレスであることを確認すると、『初めてですけど行ってもいいですか』と書き込んだ。

当日は、まだこういうオフ会というものにあまり慣れていないせいもあって緊張した。

遅れてしまってダッシュで店内に入ると、目印だという黒系の帽子で統一された一団が奥のスペースに陣取っていた。

「ちーす」という挨拶に、「すみません」と返して席につくと、テーブルの周囲に居並ぶ面々に対して妙な気まずさを感じた。

ネット上の書き込みを見ていた時から想像はついていたが、やはり若い。

たぶん全員、中学生から高校生くらいだろう。

僕もついこのあいだまで高校生だったとはいえ、1コ下2コ下となると別の生き物のような気がする。

先輩風を吹かしたりというのは苦手なので、ここでは年上だとバレないようにしようと心に決めた。

「で、これなんだけど」

そう言って全身黒でキメた16,7と思しき女の子が、足元から箱のようなものを出してきてテーブルに乗せた。

「おおー」という声があがる。

音響というHNのその子は、もったいぶりもせずテーブルの真ん中まで箱を押し出した。

「ガッコの先輩にもらったんだけど、なんか、持ってるだけで願いがかなうってさ。誰かいらない?」

え?くれるのかよ。

他の連中も顔を見回している。

「黒い手って、ほんとに黒いの?ミイラとか?」

軽い調子で中の一人が箱の蓋を取ろうとした。

その瞬間、僕の右隣に座っていた面長の三つ編み女が、その手を凄い勢いで掴んだ。

「やめて。これヤバイよ」

真剣な目で首を振っている。

「ッたいわね、なにマジになってんの」

掴まれた手を振りほどいて睨みつけると、乗り出した体を引っ込める。

それからなんとなく沈黙が訪れた。

「霊が通った」

誰かが呟いて、「えー、天使が通ったって言わない?」という反応があり、しばらく箱から目をそむけるように『霊VS天使』論争が続いたあと、音響が言った。

「で、誰かいらない?」

またシーンとする。

こんなのが大好きな連中が集まっているはずなのに、なんだこの体たらくは。

黒い手に出会えたら願いがかなう
そのためには黒い手を一週間持っていないといけない
たとえどんなことがあっても

この噂の意味がわからないほどバカではない、ということか。

ただそれも、この噂が本物で、かつこの箱の中身が本物だったらという前提条件つきだ。

根性なしどもめ。僕は違う。

なぜ山に登るのかといえば、当然そこに山があるからだった。

「僕がもらっていいですか」

全員がこっちを見て、それから音響を見る。

「いいよ。かっくいー。ちなみに箱ごとね。開けたら駄目らしいから」

音響は僕の方に箱を押し出し、ニッと笑った。

「一週間持ってないといけないんだって。でも、結婚指輪でも買ってやればそんなにかかんないかもよ」

その後は普通のオフ会らしく、くだらなくて怠惰で無意味な時間をファミレスで過ごした。

誰も箱のことには触れなかった。それが目的で来た連中のはずなのに。

解散になったとき、箱を抱えて店を出ようとした僕にさっきの三つ編み女がすり寄ってきた。

「ねえ、やめたほうがいいよ。それほんとやばいよ」

なんだこの女。霊感少女きどりなのか。

引き気味の僕の耳元に、強引に耳を寄せてささやく。

「わたし、人に指差されたらわかるんだよね。たとえ見えてない後ろからでも。そんな感覚たまにない?わたしの場合、嫌な人に指差されたら、それだけ嫌な感じがする。そんでさっき箱が出てきたとき、半端なくゾワゾワ来た。こんな感じ、今までもなかった」

そういえば、縦長の箱が置かれたとき、その片方の端がこの女の方を向いていた。

箱の中で黒い手が指を差しているというのだろうか。

そう思っていると、女の妙に冷たい息が耳に流れ込んできた。

「それがね、指差されてるのは箱からじゃないのよ。背中から、誰かに」

そこまで言うと三つ編み女は息を詰まらせて、逃げるように去っていた。

店の中で一人残された僕は、箱を抱えたまま棒立ちになっていた。

コト、という乾いた音がして、箱の中身の位置がずれた。

僕は生唾を飲み込んだ。

なにこの空気。もしかして、あとで後悔したりする?

ふと視線を感じると、店の外からガラス越しに、黒のワンピース姿の音響がこっちを見ていた。

アパートの部屋に帰り着き、箱をあらためて見ていると、気味の悪い感覚に襲われる。

黒い手の噂はつい最近始まったはずなのに、この箱は古い。古すぎる。

煤けたような木の箱で、裏に銘が彫ってあってもおかしくないた佇まいである。

この中に本当に黒い手が入っているのだろうか。

だいたい噂には、箱に入ってるなんて話はなかった。

音響と名乗るあの少女に担がれたような気もする。

でも可愛かったなぁ。と、思わず顔がにやける。

たぶん今日はオカルト好きが集まったのではなくて、少なくとも男どもは音響目当てで参加したのではないか、という勘繰りをしてしまう。

そうでなければ、開けろコールくらい起きるだろう。黒い手が見たくて集まったはずならば。

僕は箱の蓋に手をかけた。

その瞬間に、さまざまな思いやら感情やらが交錯する。

まあ、今でなくてもいいんじゃない。一週間あるんだし。

僕はつまり逃げたのだった。

そして箱を本棚の上に置くと、読みかけの漫画を開いた。

それから二日間はなにごともなく過ぎた。

三日目、師匠と心霊スポットに行って、またゲンナリするような怖い目にあって帰って来た時、部屋の扉を開けると、テーブルの上に箱が乗っていた。

これは反則だ。

部屋は安全地帯。このルールを守ってもらわないと、心霊スポット巡りなんてできない。

ドキドキしながら、昨日本棚からテーブルの上に箱を移したかどうか思い出そうとする。

無意識にやったならともかくそんな記憶はない。

平静を装いながら僕は箱を本棚の上に戻した。深く考えない方がいいような気がした。

四日目の夜。

ちょっと熱っぽくて早々に布団に入って寝ていると、不思議な感覚に襲われた。

極大のイメージと極小のイメージが交互にやってくるような、凄く遠くて凄く近いような、それでいて、主体と客体がなんなのかわからないような。

子供の頃、熱が出るたび感じていたあの奇妙な感覚だった。

そんなトリップ中に、顔の一部がひんやりする感じがして現実に引き戻された。

目を開けて天井を見ながら右の頬を撫でてみる。

そこだけアイスクリームを当てられたように温度が低い気がした。

冷え性だが、頬が冷えるというのはあまり経験がない。

痒いような気がしてしきりにそこを撫でていると、その温度の低い部分が、ある特徴的な形をしていることに気づいた。

いびつな五角形に棒状のものが五本。

僕は布団を跳ね飛ばして起き上がった。

キョロキョロと周囲を見回し箱の位置を確認する。

箱の位置を確認するのにどうして見回さなければならないのか、その時はおかしいと思わなかった。

本棚の上にあった。置いた時のままの状態で。

けれど、僕の頬に触ったのは手だった。それもひどく冷たい手の平だった。

思わず箱の蓋に手をかける。そしてそのままの姿勢で固まった。

昔から『開けてはいけない』と言われたものを、開けてしまう子供ではなかった。

触らぬ神に祟りなしとは至言だと思う。

でも、そんな殻を破りたくて、師匠の後ろをついていってるのじゃないか。

そうだ。それに箱を開けたらダメだとか、そんなことは噂にはなかった。音響が言っているだけじゃないか。

そんなことを考えていると、ある言葉が脳裏に浮かんだ。

僕はそれを思い出したとたんに、躊躇なく箱の蓋を取り払った。

中にはガサガサした紙があり、それにつつまれるように黒い手が一本横たわっている。

マネキンの手だった。

ハハハハと思わず笑いがこみ上げてくる。こんなものを有難がっていたなんて。

手にとってかざしてみる。

なんの変哲もない黒いマネキンの手だ。

左手で、それも指の爪が長めに作られているところを見ると、女性用だ。案の定だった。

あの時、音響は確かに言った。

「結婚指輪でも買ってやれば……」

つまり、左手で、女性なのだった。

『開けるな』と言っておきながら、音響自身は箱を開けて中を見ている。そう確信したから僕も開けられた。

なんだこのインチキは。

僕はマネキンの手を放り出してパソコンを立ち上げた。

今頃あのスレッドでは、担がれた僕を笑っているだろうか。

ムカムカしながらスレッド名をクリックすると、予想外にも黒い手の話は全然出てきてなかった。

すでに彼らの興味は次の噂に移っていた。

音響はなんと言っているだろうと思って探しても、書き込みはない。

過去ログを見ても、あれから一度も書き込んでないようだ。

逃げたのかとも思ったが、なにも彼女に逃げる理由はない。

俺に追及されても、『バーカバーカ』とでも書けばいいだけのことだ。

それに、もともと音響は常連の中でも出現頻度が高くない。

週に一回か、多くても二回程度の書き込みペースなのだ。

あれから四日しかたっていないので、現れてなくても当然といえば当然なのだった。

ふいにマウスを持つ手が固まった。

週に一回か二回の書き込み。

心臓がドキドキしてきた。

去っていった恐怖がもう一度戻ってくるような、そんな悪寒がする。

気のせいか、耳鳴りがするような錯覚さえある。

過去ログをめくる。

『黒い手を手に入れた』日曜日

僕が目に留めた音響の書き込みだ。

そしてその次の音響の書き込みは・・・・・・

『いーよ』金曜日

五日開いている。

ちょうどそんなペースなのだ。だから、おかしい。

その翌日の土曜日に音響は黒い手を僕にくれた。

だから、おかしい。

音響が黒い手を手に入れてから、その土曜日で六日目なのだ。

黒い手に出会えたら願いがかなう
そのためには黒い手を一週間持っていないといけない
たとえどんなことがあっても

信じてないなら持っていてもいいはずだ。あとたった一日なんだから。

それでなにも起きなければ、『やっぱあれ、ただの噂だった』と言えるのだから。

信じているなら、持っていなければならないはずだ。あとたった一日なんだから。

それで願いがかなうなら。

どうしてあとたったの一日、持っていられなかったんだろう。

頭の中に、箱を持った僕をファミレスのガラス越しにじっと見ていた音響の姿が浮かぶ。

当時、そんなジャンルの存在すら知らなかったゴシックロリータ調の格好で、確かにこっちを見ていた。

その人形のような顔が不安げに。

ただのマネキンの腕なのに。

僕は知らず知らずのうちに触っていた右頬にギクリとする。

忘れそうになっていたが、さっきの冷たい手の感覚はなんなのだ。

振り返ると箱はテーブルの上にあった。黒い手は箱の中に、そして蓋の下に。

一瞬びくっとする。

僕はゾクゾクしながら思い出そうとする。

『放り出した』というのはもちろんレトリックで、適当に置いたというのが正しいのだが、僕は果たして黒い手を箱に戻したのだったか。

箱はぴっちりと蓋がされて、当たり前のようにテーブルに横たわっている。

思い出せない。無意識に蓋をしたのかも知れない。

でも確かなことは、僕にはもうあの蓋を開けられないということだ。

徐々に冷たさが薄れかけている頬を撫でながら生唾を飲んだ。五角形と五本の棒。

一本だけ太くて、五角形の辺一つに丸々面している。親指の位置が分かればどっちかくらいは分かる。

その頬の冷たい部分は右手の形をしていた。

 

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次の日、つまり五日目。僕は師匠の家へ向かった。

音響は五日目までは持っていた。正確には六日目までだが、少なくとも五日目までは持っていられた。

僕はこれから起こることが恐ろしかった。

多分、箱の位置が変わったり、頬を撫でられたりといったことは、文字通り触りに過ぎないのではないかという予感がする。

こんなものはあの人に押し付けるに限る。

師匠の下宿のドアをノックすると、「開いてるよ」という間の抜けた声がしたので、「知ってますよ」と言いながら箱を持って中に入る。

胡坐を組んでひげを抜いていた師匠がこちらを振り向いた。

「かえせよ」

「え?」

何を言われたかよくわからなくて聞き返すと、師匠は「俺いまなにか言ったか?」と逆に聞いてくる。

よくわからないが、とりあえず黒い手の入った箱を師匠の前に置く。

なにも言わないでいると、師匠は「はは~ん」とわざとらしく呟いた。

「これかぁ」

さすが師匠。勘が鋭い。

しかし、続けて予想外のことを言う。

「俺の彼女が、『逃げろ』って言ってたんだが、このことか」

その時はなんのことかわからなかったが、後に知る師匠の彼女は異常に勘が鋭い変な人だった。

「で、なにこれ」と言うので、一から説明をした。なにも隠さずに。

普通は隠すからこそ次の人に渡せるのだろう。

しかし、この人だけは、隠さないほうが受け取ってくれる可能性が高いのだった。

ところが、ここまでのことを全部話し終えると師匠は言った。

「俺、逃げていい?」

そして腰を浮かしかけた。

僕は焦って、「ちょっと、ちょっと待ってください」と止めに入る。

この人にまで見捨てられたら、僕はどうなってしまうのか。

「だけどさぁ、これはやばすぎるぜ」

「お払いでもなんでもして、なんとかしてくださいよ」

「俺は坊さんじゃないんだから……」

そんな問答の末、師匠はようやく「わかった」と言った。

そして「もったいないなあ」と言いながら、押入れに首をつっこんでゴソゴソと探る。

「お払いなんてご大層なことはできんから、効果があるかどうかは保障しないし、荒療治だからなにか起こっても知らんぞ」

そんなもったいぶったことを言いながら、手には朽ちた縄が握られていた。

「それ、神社とかで結界につかう注連縄ですか」と問いかけるが、首を振られた。

「むしろ逆」

そう言いながら、師匠は黒い手のおさまった箱をその縄でぐるぐると縛り始めた。

「富士山の麓にはさぁ。樹海っていう自殺スポットていうかゾーンがあるだろ。
そこでどうやって死ぬかっていったら、まあ大方は首吊りだ。
何年も、へたしたら何十年も経って、死体が首吊り縄から落ちて野ざらしになってると、そのまま風化して、遺骨もコナゴナになってどっかいっちまうことがある。
でも縄だけは、ぶらぶら揺れてんだよ。いつまで経っても。
これから首を吊ろうって人間が、しっかりした木のしっかりした枝を選ぶからだろうな」
聞きながら僕は膝が笑い始めた。

なに言ってるの、この人。

「一本じゃ足りないなあ」

また押入れから同じような縄を出してくる。

キーンという耳鳴りがした。

「どうやって手に入れたかは聞くなよ」

こちらを見てニヤっと笑いながら、師匠は箱を見事なまでにぐるぐる巻きにしていった。

そのあいだ中、師匠の部屋の窓ガラスをコンコンと叩く音がしていた。

絶対に生身の人間じゃないというのは、師匠に聞くまでもなくわかる。

わーんわーんという羽虫の群れるような音も、天井のあたりからしていた。

師匠はなにも言わず黙々と作業を続ける。

そのうちドアをドンドンと叩く音が加わり、電話まで鳴り始めた。

僕は一歩も動けず、信じられない出来事に気を失いそうになっていた。

師匠が今しようとしていることに触発されて、騒々しいものたちが集まってきているような、そんな気がする。

耳を塞いでも無駄だった。

ギィギィというドアが開いたり閉まったりするような音が加わったが、恐る恐る見てもドアは開いてはいない。

「うるせぇな」

師匠がボソリと言った。

「おい、なにか喋ってろ。なんでもいいから。こんなのは静かにしてるからうるせぇんだ。静寂が耳に痛いってあるだろう。あれと同じだ」

それを聞いて僕は「そうですね」と答えたあと、何故か九九を暗唱した。

とっさに出たのだがそれだったわけだが、いんいちがいちいんにがに……

と口に出していると、不思議なことに、さっきまであんなに存在感のあった異音たちが、一瞬で世界を隔てて遠のいていくようだった。

しかしその中で、何故か電話は甲高く鳴り響き続けていた。

「これは本物じゃないですか」と言って俺が慌てて取ろうとすると、師匠が「出るな」と強い口調で制した。

その瞬間に電話は鳴り止んだ。

俺は受話器を上げようとした格好のままで固まり、冷や汗が額から流れ落ちた。

「さあ、できたぞ。どこに捨てるかな」

箱は縄で完全にがんじがらめにされ、ところどころに珍しい形の結び目ができている。

思案した結果、師匠の軽四で近くの池まで行くことにした。

僕が助手席で箱を抱えてガタガタと揺られながら、「南無阿弥陀仏」やら「南無妙法蓮華経」やら、知っているお経をでたらめに唱えていると、あっという間に池についた。

そこで不快な色をした濁った水の中に、二人してせぇのと勢いをつけて投げ入れた。ボチャンと、一番深そうな所へ。

石を巻きつけていたので、箱はゴボゴボと空気を吐き出しながら沈んでいった。

その石も耳を塞ぎたくなるような逸話を持っていたらしいが、僕はあえて聞かなかった。

すべてを終えて、パンパンと手を払いながら師匠が言った。

「問題はもう一本の手だけど、まあ本体はやっつけた方みたいだから、大丈夫だろう」

自動車のエンジンをかけながら、「それにしても」と続ける。

「都市伝説が実体を持ってたら反則だよなぁ。正体がわからないから怖いんじゃないか」

僕にはあの箱の意味も黒い手の意味もわからなかったので、なにも言えなかった。

「まあこれで都市伝説としては完成だ。実存が止揚してメタレベルへ至ったわけだ。黒い手に出会えたら、か。確かにちょっとクールだな。ところで」

師匠がこっちを見た。

「おまえはなにが願いだったんだ」

あ、と思った。

黒い手に出会えたら願いがかなう

全然意識してなかった。ひたすら巻き込まれた感が強くて、そんな前提を忘れていた。

「もう関係ないですよ」

そう言うと師匠は「ふーん」と鼻で応えて前を向いた。

それからちょうど一週間目の夜。

『そういえばあれ、どうなった?』という書き込みが例のスレッドにあった。

『まだ生きてるかー?』との問いかけに、『なんとか』と書き込んでみる。

『願いはかなった?』

『なんにも起きないよ』

音響は現れない。

『だれか箱いる?』

『だってガセねたじゃん』

もうこのスレッドに来ることもないだろうと思う。

ウインドウを閉じようとすると、『ほんとに、ほんとになにもなかった?』

しつこく聞いてくるやつがいた。

僕に警告してくれた三つ編み女だろうと思われる。

『知りたかったら、黒い手に出会えばいい』

そう書いて窓を閉じた。

それから、ただの一度も黒い手の噂を聞かなかった。

(了)

 

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