031 師匠シリーズ「血 後日談」
大学一回生の秋。
借りたままになっていたタリスマンを返しに、京介さんの家に行った。
「まだ持ってろよ」という思いもかけない真剣な調子に、ありがたくご好意に従うことにする。
「そういえば、聞きましたよ」
愛車のインプレッサをガードレールに引っ掛けたという噂が、俺の耳まで流れてきていた。
京介さんはブスッとして頷くだけだった。
「初心者マークが無茶な運転してるからですよ」
バイクの腕には自信があるらしいから、スピードを出さないと物足りないのだろう。
「でもどうして急に、車の免許なんか取ったんですか」
バイカーだった京介さんだが、短期集中コースでいつのまにか車の免許を取り、中古のスポーツカーなんかをローンで購入していた。
「あいつが、バイクに乗り始めたのかも知れないな」
不思議な答えが返されてきた。
あいつというのは、間崎京子のことだろうと察しがついた。
だがどういうことだろう。
「双子ってさ、本人が望もうが望むまいがお互いがお互いに似てくるし、それが一生つきまとうだろう。それが運命ならしかたないけど。双子でない人間が、相手に似てくることを怖れたらどうすると思う」
それは間崎京子と京介さんのことらしい。
「昔からなんだ。あいつが父親をパパなんて呼ぶから、私はオヤジと呼ぶようになった。あいつがコカコーラを飲むから私はペプシ。わかってるんだ。そんな表面的な抵抗、意味ないと思っていても、自然と体があいつと違う行動をとる。違うって、ホントに姉妹なんていうオチはない。とにかく嫌なんだよ。なんていうか、魂のレベルで。高校卒業するころ髪を切ったのも、あいつが伸ばしはじめたからだ」
ショートカットの頭に手のひらを乗せて言った。
「今でもわかる。なにかをしようとしていても、その先にあいつがいる時は、わかるんだ。離れていても同じ場所が痛むという、双子の不思議な感覚とは逆の力みたいだ。でも逆ってことは、結局同じってことだろう」
京介さんは独り言のように呟く。
「変な顔で見るな。おまえだってそうだろう」
指をさされた。
「最近、態度が横柄になってきたと思ってたら、そういうことか」
一人で納得している。どういうことだろう。
「おまえ、いつから俺なんて言うようになったんだ」
ドクン、と心臓が大きな音を立てた気がした。
「あの変態が、僕なんて言い出したからだろう」
そうだ。
自分では気づいていなかったけれど。
そうなのかも知れない。
「おまえ、あの変態からは離れた方がいいんじゃないか」
嫌な汗が出る。
じっと黙って俺の顔を見ている。
「ま、いいけど。用がないならもう帰れ。今から風呂に入るんだ」
俺はなんとも言えない気分で、足取りも重く玄関に向かおうとした。
ふと思いついて、気になっていたことを口にする。
「どうして『京介』なんていうハンドルネームなんですか」
聞くまでもないことかと思っていた。
たぶん全然ベクトルが違う名前にはできないのだろう。京子と京介。正反対で同じもの。
それを魂が選択してしまうのだ。
ところが京介さんは顔の表情をひきつらせてボソボソと言った。
「ファンなんだ」
信じられないことに、それは照れている顔らしい。
「え?」と聞き返すと、 「BOφWYの、ファンなんだ」
俺は思わず吹いた。いや、なにもおかしくはない。一番自然なハンドルネームの付け方だ。
けれど、京介さんは顔をひきつらせたまま付け加える。
「B'zも好きなんだがな。『稲葉』にしなかったのは……やっぱりノー・フェイトなのかも知れない」
そう呟き、そして帰れと俺に手のひらを振るのだった。
この話は夏から秋にかけてのものだ。
そのため秋の時点の『俺』に一人称を統一していたが、本編の時点ではやはり『僕』と書くべきだった気がする。
師匠の『僕』も間違い。
032 師匠シリーズ「病院」
大学二回生時九単位。三回生時0単位。すべて優良可の良。俺の成績だ。
そのころ子猫をアパートで飼っていたのであるが、いわゆる部屋飼いで一切外には出さずに育てていて、こんなことを語りかけていた。
「おまえはデカなるで。この部屋の半分くらい。食わんでや俺」
しかしそんな教育の甲斐なく、子猫はぴったり猫サイズで成長を止めた。
そのころ、まったく正しく猫は猫になり。犬は犬になり。春は夏になった。
しかしながら、俺の大学生活は迷走を続けて、いったい何になるのやら向かう先が見えないのだった。
その夏である。大学二回生だった。
俺の迷走の原因となっている先輩の紹介で、俺は病院でバイトをしていた。
その先輩とは、俺をオカルト道へ引きずり込んだ元凶のお方だ。
いや、そのお方は端緒にすぎず、結局は自分の本能のままに俺は俺になったのかもしれない。
「師匠、なんかいいバイトないですかね」
その一言が、その夏もオカルト一色に染め上げる元になったのは確かだ。
病院のバイトとは言っても、正確に言うと『訪問看護ステーション』という医療機関の事務だ。
訪問看護ステーションとは、在宅療養する人間の看護やリハビリのために、看護師(ナース)や理学療法士(PT)、作業療法士(OT)が出向いてその行為をする小さな機関だ。
ナース三人にPT・OT一人ずつ。そして事務一人の計六人。
この六人がいる職場が病院の中にあった。
もちろん経営母体は同一だったから、ナースやPTなどもその病院の出身で、独立した医療機関とはいえ、ただの病院の一部署みたいな感覚だった。
その事務担当の職員が病欠で休んでしまって、復帰するまでの間にレセプト請求の処理をするには、どうしても人手が足りないということで、俺にお声がかかったのだった。
ナースの一人が所長を兼ねていて、彼女が師匠とは知り合いらしい。
六〇近かったがキビキビした人で、もともとこの病院の婦長(今は師長というらしい)をしていたという。
その所長が言う。
「夜は早く帰りなさいね」
あたりまえだ。大体シフトからして十七時三十分までのバイトなんだから。
なんでも、ステーションのある四階は、もともと入院のための病床が並んでいたが、経営縮小期のおりに廃床され、その後ほかの使い道もないまま放置されてきたのだという。
今はナースステーションがあったという一室を改良して、事務所として使っていた。
そのためその階では、ステーションの事務所以外は一切使われておらず、一歩外に出ると昼間でも暗い廊下が、人気もなくずーっと続いているという、なんとも薄気味悪い雰囲気を醸し出しているのだった。
それだけではない。
ナースたちが囁くことには、この病棟は末期の患者のベッドが多く、昔からおかしなことがよく起こったというのだ。
だからナースたちも、夜は残りたくないという。
勤務経験のある人のその怖がり様は、ある種の説得力を持っていた。
絶対早く帰るぞ。そう心に決めた。が、これが甘かった。
元凶は、毎月の頭にあるレセプト請求である。
一応の引継ぎ書はあるにはあるが、医療事務の資格もなにもない素人には難しすぎた。
特に訪問看護を受けるような人は、ややこしい制度の対象になっている場合が多く、いったい何割をどこに請求して、残りをどこに請求すればいいのやら、さっぱりわからなかった。
頭を抱えながらなんとか頑張ってはいたが、三日目あたりから残業しないと無理だということに気づき、締め切りである十日までには仕上がるようにと、毎日の帰宅時間が延びていった。
「大変ねえ」と言いながら仕事を終えて帰るナースたちに愛想笑いで応えたあと、誰もいない事務所には俺だけが残される。
とっくに陽は暮れて、窓からは涼しげな夜風が入り込んでくる。
静かな部屋で、電卓を叩く音だけが響く。
ああ。いやだ。いやだ。
昔はこの部屋で夜中、ナースコールがよく鳴ったそうだ。
すぐにすぐにかけつけると、先日亡くなったばかりの患者の部屋だったりしたとか……
そんな話を昼間に聞かされた。
一時期完全に無人になっていたはずの四階で、真夜中に呼び出し音が鳴ったこともあるとか。
ナースコールの機器なんて、とっくに外されていたにもかかわらず。
確かに病院は怪談話の宝庫だ。でも現場で聞くのはいやだ。
俺はやっつけ仕事でなんとかその日のノルマを終えて、事務所を出ようとする。
恐る恐るドアを開くと、しーんと静まり返った廊下がどこまでも伸びている。
事務所のすぐ前の電灯が点いているだけで、それもやたらに光量が少ない。
どけちめ。だから病院はきらいだ。
廊下を少し進んで階段を降りる。
一階まで着くと人心地つくのだが、裏口から出ようとすると最後の関門がある。
途中で霊安室の前を通るのだ。
もっとこう、地下室とか廊下の一番奥とか、そんなところにあることをイメージしていた俺には意外だったが、あるものは仕方がない。
『霊安室』とだけ書かれたプレートのドアの前を通り過ぎていると、どうしても摺りガラスの向こうに目をやってしまう。
中を見せたいのか見せたくないのか、どっちなんだと突っ込みたくなる。
中は暗がりなので、もちろんなにも見えない。なにかが蠢いていても、きっと外からはわからないだろう。
そんな自分の発想自体に怯えて、俺は足早に通り過ぎるのだった。
そんなある日、レセプト請求も追い込みに入った頃に、夕方の訪問を終えたナースの一人が事務所に帰ってきた。
ドアを開けた瞬間、俺は思わず目を瞑った。なぜかわからないが、見ないほうがいい気がしたのだ。
そのまま俯いて生唾を飲む俺の前をナースは通り過ぎ、所長の席まで行くと、沈んだ声で「××さんが亡くなりました」と言った。
所長は「そう」と言うと、落ち着いた声でナースを労った。
そしてその人の最期の様子を聞き、手を合わせる気配のあとで、「お疲れさまでした」と一言いった。
PTやOTというリハビリ中心の訪問業務と違い、ナースは末期の患者を訪問することが多い。
病院での死よりも、自分の家での死を家族が、あるいは自分が選択した人たちだ。
多ければ年に十件以上の死に立ち会うこともある。
そんなことがあると、今更ながら病院は人の死を扱う場所なのだと気づく。
複数回訪問の多さから薄々予感されたことではあったが、ついさっきまでその人のレセプトを仕上げていたばかりの俺には、ショックが大きかった。
そして、いま目が開けられないのは、そこにその人がいるからだった。
その頃は異様に霊感が高まっていた時期で、けっして望んでいるわけでもないのに、死んだ人が見えてしまうことがよくあった。
高校時代まではそれほどでもなかったのに、大学に入ってから霊感の強い人に近づきすぎたせいだろうか。
「じゃあ、これで失礼します。お疲れ様でした」
ナースが帰り支度をするのを音だけで聞いていた。
そして、蝿が唸っているような耳鳴りが去るのをじっと待った。
二つの気配がドアを抜けて廊下へ消えていった。
俺はようやく深い息を吐くと汗を拭った。
たぶんさっきのは、とり憑いたというわけでもないのだろう。ただ『残っている』だけだ。
明日にはもう連れて来ることはないだろう。
俺はここに『残らなかった』ことを心底安堵していた。その日も夜遅くまで残業しなければならなかったから。
その次の日、もう終業間近という頃。
不謹慎な気がして死んだ人のことをあれこれ聞けないでいると、所長の方から話しかけてきた。
「あなた見えるんでしょう」
ドキっとした。事務所には俺と所長しかいなかった。
「私はね、見えるわけじゃないけど、そこにいるってことは感じる」
所長は優しい声で言った。
そういえば、この人はあの師匠の知り合いなのだった。
「じゃあ、昨日手を合わせていたのは」
「ええ。でもあれはいつでもする私の癖ね」
そう言って、そっと手を合わせる仕草をした。
俺は不味いかなと思いつつも、どうしても聞きたかったことを口にした。
「あの、夜中に人のいないベッドからナースコールが鳴るって、本当にあったんですか」
所長は溜息をついたあと答えてくれた。
「あった。仲間からも聞いたし。私自身も何度もあるわ。でもそのすべてがおかしいわけでもないと思う。計器の接触不良で鳴ってしまうことも確かにあったから。でもすべてが故障というわけでもないのも確かね」
「じゃ、じゃあこれは?」と、所長の口が閉じてしまわないうちに、俺は今までに聞いた噂話をあげていった。
所長は苦笑しながらも、一々「それは違うわね」「それはあると思う」と丁寧に答えてくれた。
今考えれば、こんな興味本位なだけの下世話で失礼な質問を、よく並べられたものだと思う。
しかしたぶん所長は、師匠から俺を紹介された時、なにか師匠に含められていたのではないだろうか。
ところが、ある質問をしたときに所長の声色が変わった。
「それは誰から聞いたの?」
俺は驚いて思わず「済みません」と謝ってしまった。
「謝ることはないけど、誰がそんなことを言ったの」
所長に強い口調でそう言われたけれど、俺は答えられなかった。
どんな質問だったのかはっきり思い出せないのだが、この病棟に関する怪奇じみた噂話だったことは確かだ。
不思議なことに、その訪問看護ステーションのバイトを止めてすぐに、この噂についての記憶が定かでなくなった。
だが、その時ははっきり覚えていたはずなのだ。ついさっき自分でした質問なのだから当たり前であるが。
しかし、誰からその噂を聞いたのかは、その時も思い出せなかった。
ナースの誰かだったか。それともPTか、OTか。病院の職員か……
所長は穏やかではあるが強い口調で「忘れなさい」と言うと、帰り支度を始めた。
俺は一人残された事務所で、いよいよ切羽詰ったレセプト請求の仕上げと格闘しなければならなかった。
やたらと浮き足立ってしまった心のままで。
泣きそうになりながら、減らない書類の山に向かってひたすら手を動かす。
夜蝉も鳴き止んだ静けさの中で一人、なにかとても恐ろしい幻想がやってくるのを必死で振り払っていた。
よりによって次の日は十日の締め切りだった。
どんなに遅くなってもレセプトを終わらせなくてはならない。
チッチッチッという時計の音だけが部屋に満ちて、俺はその短針の位置を確認するのが怖かった。
多分日付変わってるなぁと思いながら、段々脳みその働きが鈍くなっていくのを感じていた。
いつのまにウトウトしていたのか、俺はガクンという衝撃で目を覚ました。
意識が鮮明になり、そして部屋には張り詰めたような空気があった。
なぜかわからないがとっさに窓を見た。
その向こうには闇と、遠くに見える民家の明かりがぽつりぽつりと偏在しているだけだった。
次にドアを見た。なにかが去っていく気配があった気がした。
そして俺の頭の中には、今日所長に質問した中にはなかった、奇怪な噂が新たに入り込んでいた。
遠くから蝿の呻くような音がする。
『誰に聞いたのか』とはそういうことなのか。
『誰も言うはずがない話』
あるいは、『所長以外、誰も知っているはずがない話』
たとえば、所長が最期を看取った人の話……
そんな話を俺がしたら、今日のような態度になるだろうか。
そんな噂話を俺にしたのは誰だろう。今、闇に消えたような気配の主だろうか。
生々しい、そしてついさっきまでは知らなかったはずの奇怪な噂が、頭の中で渦を巻いている。
俺はここから去りたかった。でも絶対無理だ。
今あのドアを開けて、暗い廊下に出て、人の居ない病室を通り、狭い階段を降り、霊安室の前を行くのは。
俺はブルブルと震えながら、このバイトを引き受けたことを後悔していた。
廊下の闇の中に、なにかを囁きあうような気配の残滓が漂っているような気がする。
それからどれくらい経ったのか。
ふいに静寂を切り裂くような電話のベルが鳴った。
心臓に悪い音だった。
でも、生きている人間側の音だという、そんな意味不明の確信にすがりつくように受話器をとった。
「もしもし」
『よかったー。まだいた。ねえ、そこに○○さんのカルテない?』
聞き覚えのある声がした。ステーションのナースの一人だった。
『すっごく悪いんだけど、今○○さんの家から連絡があって、危篤らしいから、ほんと悪いんだけど、今すぐカルテ持って○○さんの家に来てくれない?私もすぐ行くけど、そっち寄ってたら時間かかりそうだから』
俺は「はい」と言って、すぐにカルテを持って駆け出した。
ドアを開けて、廊下を抜けて、階段を降りて、霊安室の前を通って、生暖かい夜風の吹く空の下へ飛び出した。
所詮は臨時の事務職だ。
でもその日、人の命に関わる仕事をしたという確かな感触があった。
鬱々と下を向いてばかりでなくてよかった。
人の死を興味本位で語るばかりじゃなくてよかった。
こんな夜の緊急訪問はよくあることらしい。でも俺にとって特別な意味がある気がした。
だから、カルテを届けたあとまた事務所に帰って、レセプト請求をすべて完成させるのに全精力を傾けられたのだろう。
次の日、あまり寝てない瞼をこすりながら出勤すると、所長が「お疲れ様。昨日は大変だったわね」と話しかけて来た。
俺は「いえ、このくらい」と答えたが、所長は首を振って「やっぱりあなたには向いてない職場かもね」と優しい声で言うのだった。
俺はそのあと二週間くらいでそのバイトを止めた。
いい経験になったとは思う。
でも、人の死をあれほど受け止めなければならない職場は、やはり俺には向いてないのだろう。
俺があの夜、カルテを届けた人はその日の朝に亡くなった。
そしてその死を看取ったナースは、すぐに次の訪問先へ向かった。
またその肩に死者の一部を残したままで。
(了)