中学時代の同級生から、妙な話を聞いた。
彼の住む集合住宅から少し離れた場所に、個人経営の定食屋があったという。駅前の喧騒から外れた裏道にあり、夕方でも人通りはほとんどない。暖簾は色が抜け、何屋なのか一目では分からない。表のガラス戸には「家庭の味」とだけ書かれた紙が貼られていた。
初めて入ったとき、鼻についたのは出汁と古い畳の匂いが混じったような、生活そのものの空気だった。店内は無駄に広く、四人掛けの卓が等間隔で並んでいる。客は一人もいなかった。カウンターの奥には、年齢の読めない男が一人立っていて、白衣は洗いすぎたのか繊維が寝ていた。奥の方から、時折、何かを引きずるような音がしたという。
卓の中央には、醤油、七味、ソースがまとめて置かれていた。その横に、小さな立て札があった。ボールペンで書かれた文字は、丁寧だが妙に力が入っている。
「まずは、そのままで召し上がってください」
彼は濃い味が好きで、何を食べるにも調味料を足す癖があった。その日も、注文した煮魚定食に、無意識に醤油を回しかけた。味は可もなく不可もなく、家庭料理と言われればそうなのだろう、という程度だった。
三度目に訪れたとき、違和感が生じた。
注文を告げると、男は一瞬、彼の手元を見てから、同じ文句を口にした。
「まずは、そのままで召し上がってください」
声は低く、抑揚がなかった。注意というより、確認に近い調子だった。彼は軽く会釈し、構わずいつも通り醤油を使った。
それからしばらく、その店には行かなかった。理由はない。ただ、思い出すと少し胸の奥がざらつく感じがしたという。
数ヶ月後、仕事帰りに無性に魚が食べたくなり、久しぶりに足を向けた。店は変わらず空いていた。男は同じ位置に立ち、同じ顔で、同じ言葉を繰り返した。
「まずは、そのままで召し上がってください」
その時、彼は気づいた。男の視線が、自分の顔ではなく、卓の上の調味料を見ていることに。見張るような目つきではない。むしろ、期待に似た、切実な焦点の合わせ方だった。
料理は、奥から運ばれてきた。姿は見えなかった。足音だけが近づき、皿が置かれ、また引いていく。客席から奥は死角で、こちらの様子は分からないはずだった。
それでも男は、知っているようだった。彼が何を足し、どう食べるかを。
彼は試すような気持ちで、また醤油を使った。その瞬間、床の下から鈍い音がした。何かが落ち、続いて踏み固められるような感触が、空気を通して伝わってきた。
反射的に顔を上げると、奥へ続く引き戸が、いつの間にかわずかに開いていた。そこからこちらを見ている気配があった。人数も、表情も分からない。ただ視線だけが、はっきりと存在していた。
そこにあったのは怒りでも憎しみでもない。理解されなかったことへの、行き場のない困惑だった。何度も示したのに、何度も置いたのに、届かなかったという空洞。
彼は箸を置き、勘定もせずに店を出た。背中に、視線が貼り付いたままだった。
それ以降、その道を通らなくなった。
半年ほどして、偶然前を通ったとき、店は閉まっていた。ガラス戸には不動産会社の紙が貼られている。だが、戸の内側、あの立て札があった位置に、白い紙が一枚残されていた。
「そのままで、よかったのに」
誰に向けた言葉だったのかは分からない。ただ彼は、それを読んだ瞬間、あの味を思い出し、なぜか胸の奥がひどく痛んだという。
(了)