田舎の友人から聞いた話だ。
彼の家では、山で椎茸を栽培している。原木を山中に伏せ込み、季節ごとに様子を見に行くのが日課だった。山は代々の持ち山で、地元以外の人間が入り込むことはほとんどない。ただ、近年は時々、木が動かされたり、原木が一本だけなくなっていたりすることがあり、父親から見回りを頼まれていた。
その日も、特に用事があったわけではない。朝のうちに軽トラで登山道の入口まで行き、そこから一人で山に入った。空は薄曇りで、風もなく、湿った落ち葉の匂いが強かったという。
原木の様子を見ながら、いつものルートを歩いていたときだ。視界の端、木々の奥で何かが動いた。人影のようにも見えたが、はっきりしない。迷彩服でも着ているのか、背景と溶け込んで輪郭が曖昧だった。
サバゲーでもしに来た連中だろう。そう思った。近くで銃声や掛け声を聞いたこともある山だ。彼は立ち止まり、声を張り上げた。
「すみませーん。ここ、私有地なので入らないでもらえますか」
少し間があって、影がこちらに動き出した。ザクッ、ザクッと、枯葉を踏みしめる音が一定の間隔で近づいてくる。音ははっきり聞こえるのに、姿だけが相変わらず掴めない。木と木の間を縫うように、濃淡の塊が進んでくる。
距離が縮まっても、顔が見えなかった。帽子も、装備も分からない。人の形をしているはずなのに、視線を合わせようとすると、どこを見ればいいのか分からなくなる。
声をかけるべきか迷っているうちに、その影は彼のすぐ横まで来た。息遣いは聞こえない。ただ、足音だけがある。影は彼を避けるでもなく、ぶつかるでもなく、横を通り過ぎていった。
すれ違った瞬間、肩が冷えた気がしたという。風が吹いたわけではない。触れられた感触もない。それでも、そこだけ温度が違った。
影はそのまま林の奥へ進み、木々に紛れて消えた。彼は振り返ったが、もう何も見えなかった。
そのとき、気づいたことがある。さっきまで聞こえていた足音が止まったのと同時に、周囲が妙に静かになっていた。鳥の声も、虫の羽音もない。山の中では珍しいほどの無音だった。
しばらく立ち尽くしていると、ようやく遠くで小さな音が戻り始めた。カサ、と落ち葉が動き、どこかで鳥が一声鳴いた。まるで、一度止まってから再開したような間だった。
気味が悪くなり、その日は見回りを切り上げて下山した。父親に話すと、特に驚いた様子もなく「山にはそういうもんがおる」とだけ言われた。祖父も同じ反応だったという。
「結局、何だったのか分からないんだよ」
友人はそう言って首を傾げた。
「人じゃないって言われても納得できないし、人だって言われても納得できない。たださ、あれが通ったあと、山が一回、息を止めたみたいだった」
それ以来、彼は見回りのとき、影が動きそうな場所を見るのを無意識に避けているそうだ。山に入ること自体はやめていない。ただ、あの日と同じ時間帯、同じ天気の日には、なるべく行かないようにしている。
理由はない。ただ、また山が息を止める瞬間に、自分が立ち会ってしまう気がするからだ。
[出典:185 :元登山者:2009/09/24(木) 14:33:43 ID:3WAa8cBj0]