あのタワマンの一階駐車場に入ると、排気ガスでも油でもない、どこか湿った布を絞ったような匂いが微かに混じる。
建て直してまだ数年のはずなのに、空間だけ古びているように感じる瞬間がある。
エレベーターホールへ歩きながら、決まって視線が天井へ向かう。白い無機質な塗装の奥に、細い筋のような影が揺れている。最初に気づいたのは雨上がりの夕方だった。車から降りた拍子に、真上から「かすれた擦過音」が降ってきて、思わず身をすくめた。
見上げると、天井の板から膝下だけが垂れていた。肌の色は沈んだ灰色で、爪先が小刻みに揺れる。あれを幽霊と呼ぶしかない、と自分で納得するまで少し時間がかかった。
その日以来、足はいつ行ってもそこにある。
誰に話しても信じてもらえないし、説明するほど自分の声が心許なくなる。自分でも何を見ているのか曖昧になる瞬間がある。
ただ、近づくと皮膚がざらつくような冷気が降りてきて、空調の風とは違うと分かる。
私はしばらく、なぜ天井から「足だけ」なのか理解できなかった。
幽霊だとしても、そんな不自然な見切れ方をする理由が分からなかった。
それでも毎日通るたび、目が離せない。見ないように顔を逸らすと、僅かに気配が追いすがってくるようで、意識の後ろ側がひりつく。
ある夜、仕事で帰りが遅くなった。
駐車場はほとんど真暗で、誘導灯だけが青白く床を舐めていた。その下を通ると、いつもより天井の影が濃い。足は変わらず吊られている。揺れは弱く、まるで息を潜めているようだった。
私は荷物を抱えたまま、しばらくそこから動けなかった。胸の奥がざわつくのではなく、皮膚の内側に何かが沈むような感覚があった。
建て直す前、ここには低層の古いマンションが建っていた。私はその頃の記憶をほとんど持たない。越してきたのは再開発のあとだった。
ただ、住民同士の雑談で、かすかに耳にしたことがある。
「前のマンションで、ひとり……二階で」
会話はそこから濁された。
その時は深く聞く気もなく、ただ流してしまった。
後に知ったのは、駐車場の天井が通常より高い理由だった。
高さが「一階分と半分」ほどあるのは、車路の傾斜と新しい配管の関係で仕方なかったらしい。
業者の説明を管理組合の資料で読んだ時、なぜか手のひらが湿っていた。
数字を見た瞬間、あの足の位置と、二階の床の高さが頭の中で重なった。
その日の帰宅後、寝つけず、部屋の空気が薄く感じた。
布団に入っても目だけが冴え、耳の奥で誰かの靴底がゆっくり床を擦るような音が続いた。
暗闇で目を閉じていると、駐車場の天井がそのまま部屋の天井と重なり、足が降りてくる錯覚に何度も襲われた。
翌朝、私は確かめるように駐車場に降りた。
足はやはりあった。
しかし前夜と違って、揺れも影も僅かに位置がずれていた。一歩だけ、歩み寄るように。
私はそこで確信した。
あれは建て直しで「置いて行かれた」のではない。
あの場所が、今も二階の高さのまま残っているのだ。
マンションは新しくなったが、そこだけは間取りが過去のまま貼り付いている。
天井に見えているのは、今もぶら下がっている「現在のその人」……ではなく、
「過去の二階の空間」が切れ目のように露出しているのだと。
そう思った瞬間、胸が強く脈打ち、視界が揺れた。
全て説明がついてしまった気がして、むしろ足元が冷えた。
原因が分かったところで、何も変わらないどころか、かえって逃げ場がなくなる感覚があった。
だがその「説明」は、後で別の形でひっくり返された。
もっと単純で、もっと嫌な確かめ方が待っていた。
翌週、私は昼間に駐車場へ降りた。
昼光色の照明が均一に落ちていて、夜のような陰影は薄い。なのに、天井のある一点だけ、光が吸い込まれたように暗い。
足はそこにあった。昼でも。
白い天井の継ぎ目から、膝の裏がくっきりと覗く。照明が強いぶん、質感が生々しく、皮膚というより湿った紙のように見えた。
私は、なるべく近づかないように歩いた。
視界の端で揺れる爪先に気づくたび、足の裏が少しずつ汗ばんでいく。
近くを通る車の音が反響し、滴るような残響が長く伸びた。その響きと、吊られた足の揺れのリズムが妙に合っていて、耳の内側がざわつく。
その時、後ろから声がした。
「気づいてるんだね」
振り返ると、管理員室の制服を着た年配の男性が立っていた。
視線は私ではなく、まっすぐ天井の足に向いている。
手に持ったモップの先が微かに震えていた。
「……見えるんですか」
思わずそう言ってしまった。
男性はうなずき、ため息まじりに口を開いた。
「前の建物のとき、ここは二階の部屋でね。誰も住まなくなった最後の冬に……ああいうことがあったんだ」
言い淀んでから、男性は静かに続けた。
「建て直しの時期になって、あそこだけ妙に冷えるって工事の人が言うんだよ。図面が新しくなっても、前の二階の“重さ”が残ってたらしい」
私は男性の言葉を真に受けるべきか迷った。
ただ、その場に立っていると、確かに空気の層が一段重く沈んでいる。
管理員は足を見上げたまま、ぼそりと呟いた。
「でもね……あれ、位置が少しずつ下がってる気がするんだよ」
ぞくりとした。
夜中に見た、あの一歩分の前進。
自分の勘違いではなかったのだろうか。
その日を境に、私は駐車場を通るたび、呼吸が浅くなるようになった。
天井を直視するのは怖い――いや、正確には、見ていない瞬間に限って気配が強まる気がして、結局いつも目で追ってしまう。
ある深夜、車から降りた時、足がまるで待っていたように、揺れを止めていた。
その静止が、逆にこちらを向いているようで、視界の端がきしむ。
エレベーターへ向かう途中、私はふと足音を聞いた。
天井からではなく、背後の床面から。
乾いた一歩。
続けて、もう一歩。
振り向くと誰もいない。
だが耳だけが、その足音の高さが“床ではなく中空”から落ちてくることを理解していた。
あれは、二階の床の高さだ。
過去の二階が、いまも空中に残っている。
そこを歩く何かが、こちらへ寄ってきている。
気づいた瞬間、背筋が冷たく伸びた。
私は駆けるようにエレベーターへ飛び込んだ。
扉が閉まると、わずかに外の空気が揺れ、鼻先に湿った布の匂いが入り込んだ。
その夜、部屋に戻ってもしばらく手が震えていた。
窓の外に光るタワマンの外壁は、ただの建造物のはずなのに、どこか膜を張った生き物の肌のように見えた。
しかし、後編で知ることになるが、
私が最初に立てた「二階が残っている」仮説は、半分しか合っていなかった。
本当はもっと単純で、もっと逃げ場がなかった。
三日後の夕方、管理員室の前を通った時、見慣れない貼り紙があった。
「天井点検のため一部立入禁止」
理由が書かれているが、文面はどこか歪んでいる。「老朽化した配線」「安全確認」。
どれも、この建物の新しさにそぐわない。
胸の奥がざらつき、貼り紙から目を離せなくなった。
立入禁止区域に指定されたのは、例の足が垂れている直下だった。
黄色テープが半円を描くように張られ、空間だけぽっかり隔離されている。
だが、天井の足は消えていなかった。
むしろ以前よりくっきりして見えた。
照明の角度のせいではない。光を遮る“輪郭”そのものが濃くなっている。
ふと、背後でカサ、と小さな衣擦れがした。
振り返ると、誰もいない。
しかし天井の足が、わずかに揺れた。
人が上で体勢を変えた時の、あの微妙な揺れ。
私は後ずさった。
その瞬間、視界の端で、足の“付け根”の影が少し深くなった。
――首のあたりが、絞まっているのか。
そこで、はっきりと理解した。
足だけが見えているのではない。
首を吊っている“その一点”だけが、この建物の新旧をまたいで残っている。
二階が丸ごと残っているわけじゃない。
吊られたその場所だけが、床の高さとともに“現在”へ食い込んでいる。
だから、天井の板から膝下だけが覗く。
今もそこに、重さがある。
誰かが、ずっとそこに居る。
私はその場から離れようとした。
だが、一歩踏み出した瞬間、真上から「ぎし」と小さく梁が鳴った。
昼間の駐車場で、そんな音がするはずがない。
振り返ると、足の爪先が先程より明確に、自分の方へ向いていた。
やばい、と思った。
逃げるとか、叫ぶとかより先に、身体の中心が冷たく固まった。
足だけがこちらを向くことなどありえない。
なら、“向いている”のは足ではない。
吊られた上の顔が、こちらを向いた結果として、足の向きが変わっただけなのだ。
そこまで考えた瞬間、
私の頬に、ゆるく風が触れた。
上から降りてきた風。
誰かが、真正面から覗き込む時の高さの風。
私は走った。
エレベーターではなく、階段へ飛び込んだ。
踊り場の灯りがひとつだけ瞬き、背後の空気がじっとり重くついてくる。
階段を駆け上がるたび、足音が一歩遅れて追う。
それは床ではなく、やはり中空――“二階の高さ”から落ちてきた。
部屋に転がり込むようにして扉を閉めた時には、息が上がっていた。
しかし不思議と、部屋の空気は何も変わらない。
まるで自分が騒いでいるだけのように、静かだった。
だが、翌朝のことだ。
出勤のために廊下へ出た時、
自分の玄関の天井に、黒く細い筋がひとつ走っていた。
駐車場の天井にあった、あの継ぎ目とそっくりの幅。
私はゆっくり顔を上げた。
そこに足はなかった。
だが、筋の下の空気が、わずかに冷えていた。
指先で触れれば、誰かの体温の残りのように湿っている気がした。
……もしかして、あの“位置”は動いているのではないか。
建て直しでこぼれ落ちた場所が、徐々に新しい建物の中を探して、
自分のいた高さへ戻ろうとしているのではないか。
駐車場で下がっていたのではなく、
上へ向かおうとしている。
その高度が、ゆっくり、確実に、私の階へ近づいているのだろう。
天井の筋を見上げるたび、じわりと胸が押される感覚がする。
そして最後に気づいた。
玄関の筋の位置は、昨日の駐車場で見た足より“わずかに高い”。
つまり、今の私の部屋の天井の裏側――
そこに、あの“過去の二階の高さ”が、もう来ているということだ。
昨日の夜、部屋に戻った時に感じたあの風。
あれはきっと、
すでに真上で揺れていた何かの風だったのだ。
[出典:147 :本当にあった怖い名無し 警備員[Lv.5][新芽]:2024/10/30(水) 19:13:30.18ID:bZklkNPc0]