夏の終わりを告げるように、朝夕の風が急に冷たくなり始めた頃のことだ。
その日、俺はパチンコ店の駐車場で警備員のアルバイトをしていた。遅番で、午後四時から夜十一時まで。新装開店初日ということもあり、平日の夕方にもかかわらず、駐車場はいつになく騒がしかった。
誘導棒を振りながらホールスタッフと挨拶を交わしていると、警備員詰め所の方から、怒鳴り声のようなものが聞こえた。
振り向くと、詰め所から岩山さんが飛び出してきた。自衛隊出身で、普段は無口で淡々と仕事をこなす人だ。その岩山さんが、明らかに焦った様子でこちらに向かってくる。
「駐車場で、子供の泣き声がするらしい」
そう言いながら、後ろを振り返る。そこには見覚えのない中年の男が立っていた。客だということだけは分かったが、どこか落ち着きのない表情をしていた。
話を聞くと、二階駐車場で、車の中から子供の泣き声が聞こえたという。どの車かは分からない。ただ、確かに聞いた、と。
岩山さんはその場で、霊感があると噂されているホールスタッフに店長へ連絡するよう指示し、俺たちはすぐに二階へ向かった。
二階駐車場はほぼ満車だった。エンジンの熱と西日がこもり、空気が重い。泣き声はもう聞こえなかったが、俺たちは一台一台、車内を覗きながら進んだ。
途中、何度か立ち止まり耳を澄ませたが、聞こえるのは遠くのホールの音と、換気扇の低い唸りだけだった。
「あの車だ」
岩山さんが急に声を上げた。
黒いステップワゴンだった。覗き込むと、後部座席の足元、シートの下に、小さな男の子が丸まるようにして倒れていた。幼稚園くらいの年齢だろう。
なぜそんな場所にいるのか分からなかったが、岩山さんが言った。
「日光を避けたんだろ」
窓を叩いても反応はない。ドアはすべてロックされていた。男の子の口元には、白い泡のようなものがこびりついている。
マネージャーが駆けつけたが、判断を迷っている様子だった。ガラスを割るかどうかで逡巡している。
そのとき、下の階から上がってきた二人組の男が状況を見て、ひとりが自分の車からハンマーを持ってきた。
「警察だ」
そう言って、ためらいなく運転席側の窓を叩き割った。ガラスは拍子抜けするほど簡単に砕けた。
ドアを開け、男の子を抱き上げる。息はしていた。
救急車を呼び、冷たい飲み物を探し、うちわや帽子で必死にあおいだ。サイレンの音が近づく頃には、男の子はかすかに咳き込んだ。
やがて救急車とパトカーが到着し、その直後、金髪で香水の匂いを漂わせた若いカップルが現れた。
女は子供の名前を叫びながら駆け寄り、男は苛立ったように言った。
「まだ確変残ってんだよ」
その一言で、場の空気が一変した。年配の警察官が男の胸倉を掴み、怒鳴った。
「なめるな」
男は一気に青ざめ、その場に崩れ落ちた。
母親は救急車に同乗し、父親はパトカーに乗せられた。
後日、警察から事情聴取を受けた。子供は後遺症もなく助かったという。
ただ、一つだけ、妙な点が残った。
最初に通報したという中年の客は、結局特定できなかった。防犯カメラにも、それらしい人物は映っていなかった。
そして、誰も、はっきりとは泣き声を聞いていないことになっていた。
霊感があると言われているホールスタッフが、ぽつりと言った。
「あのカップルの後ろに、何かがいました」
詳しく聞こうとすると、首を振った。
「季節の変わり目なんです。そういうのが、増える時期なんですよ」
それ以上、彼は何も語らなかった。
あの日、最初に俺たちを動かしたものが何だったのか。
それだけが、今も分からないままだ。
(了)
[出典:2009/07/28(火) 23:52:28 ID:+52GQ5JS]