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中編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2025

無視すんなよ nw+202-0120

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六月の、雨が上がったばかりの生ぬるい空気。窓は少しだけ開いていた。

今でも、あの夜の匂いを思い出すと胸の奥がざわつく。夕食の支度が始まったばかりの台所から流れてくる、醤油と焦げかけた油の混ざった匂いだ。甘くもなく、食欲をそそるほどでもない、ただ生活の奥に沈んだ匂い。

午後六時を少し過ぎた頃。部屋はまだ薄明るく、蛍光灯はつけていなかった。湿気を含んだ空気が光を乱反射させ、家具の縁を鈍く浮かび上がらせている。畳に座った感触、肌に張り付く汗の不快さまで、今でもはっきり思い出せる。

静かだった。父は休みで、隣の和室にいるはずだったが、新聞をめくる音も咳払いも聞こえない。分厚い布を耳に被せられたような静けさが、部屋全体に満ちていた。

部屋の隅で旧式の扇風機が唸っている。首振り機能は壊れていて、一定の方向だけを撫でるように風を送り続けている。その単調なモーター音だけが、この空間が現実である証拠だった。

祖母が旅行土産にくれた竹製の耳掻きを、左耳に差し込んでいた。軸は細く、梵天は煤けている。軽く、指先に乗せると存在を忘れそうな重さだ。右耳は何も塞いでいない。

なのに、右耳だけが妙に遠い。音が届いているはずなのに、方向も距離も曖昧で、すべてが頭の内側で鳴っているような感覚があった。

隣室で父が咳払いをした。その音は、襖一枚隔てているはずなのに、やけに近く、同時にひどく遠く聞こえた。距離感が歪んでいる。その違和感が、後から思えば、最初の兆しだったのだと思う。

背中だけがじんわりと冷たい。湿気のせいなのか、それとも別の理由なのか、当時の自分にはわからなかった。

耳掻きの竹軸が耳の奥を撫でる微細な感触に意識を集中させる。耳掻きは一種の瞑想だった。外界から切り離され、自分の内側だけに沈んでいく感覚。小学生だった自分にとって、それは手軽な逃避だった。

その集中を破るように、どこからか微かな「話し声」のようなものが混ざってきた。言葉にはならない。ただ、人が二人、低い調子で何かをやり取りしているような気配。

父と母の声だろうか。だが、母は台所にいる。ここから二部屋向こうだし、あんな静かな声のはずがない。油の匂いしか届いてこない。

外の音なのか、体内の反響なのか。判別できないことが、苛立ちを生んだ。耳掻きをやめるべきか迷いながら、逆に少し深く差し込む。快感が強まる。外側の不安を、内側の感触で押し流そうとする、幼い防衛だった。

その瞬間、「話し声」がわずかに近づいた気がした。右耳、何も塞いでいない方からだ。

首をほんの少し右に傾ける。音の正体を捉えようとする。父の声ではない。もっと乾いていて、体温が低く、性別の輪郭がない。

耳掻きを抜くのが、ひどく面倒に感じられた。体が固まり、簡単な動作すら億劫になる。手のひらに汗が滲む。

次の瞬間、椅子ごと背後から強く押された。

ドン、と短く湿った衝撃。畳の上で椅子が滑り、体が揺れ、その拍子に左耳の竹軸が深く突き刺さった。膜が破れるような、水っぽい感触が頭の奥に走る。

激痛。反射的に耳掻きを手放す。畳に転がった竹軸。指先に触れたぬるりとした感触。血だった。

世界の音が遠ざかり、自分の呻き声だけが歪んで聞こえる。痛い、という感覚しか残らない。

その痛みが頂点に達した、その瞬間。開いていた右耳のすぐ横で、誰かが口を寄せたように囁いた。

「無視すんなよ……」

大きな声ではない。それなのに、湿った息遣いと熱が皮膚に直接触れた気がした。怒りとも、諦めとも、寂しさともつかない感情が混ざった声。

その声は、痛みを一瞬で塗り潰した。

父が駆け込んできた。襖が開き、現実の音が一気に戻る。父の手が肩を掴む。その瞬間、空気の重さが消え、部屋はただの居間に戻った。

「何にぶつかったんだ」

父の問いに、答えられなかった。椅子を押したものは見えなかったし、部屋には何もなかった。

病院での診断は鼓膜穿孔。自然治癒を待つだけだと言われた。薬袋のビニールの匂いだけが、現実感を持って残った。

その夜、自室で布団に入った。左耳は鈍く痛み、右耳だけが妙に冴えている。ふと枕元の壁を見ると、半月状の黒ずみがあった。顎を乗せた跡のように見えた。

数週間後、鼓膜は塞がった。聴力も戻った。ただ、音に対して過敏になった気がした。

それから何年も経ち、一人暮らしを始めた夜。集中のため、右耳にイヤホンを差し込んで作業していた。

そのとき、左耳の奥で、かつてと同じ「話し声」の気配がした。

イヤホンを外す間もなく、背後で短く湿った衝撃音が鳴る。

そして、今度は左耳のすぐ横で、あの声が囁いた。

「話があるのに、無視すんなよ……」

その声が、どこから来たのか。誰のものなのか。今も、決められない。

ただ一つ確かなのは、今も私は、音を遮る癖をやめられずにいるということだ。

[出典:873 :あなたのうしろに名無しさんが・・・ :03/10/19 01:42]

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