俺が小学四年の頃だから、もう二十年は前になる。
ひとつ上に、ノエ君って呼ばれてた奴がいた。
本名は忘れたが、町で知らない人間はいなかったと思う。
山の生き物に異様に執着していて、レア種のためなら本当に何でもやる。
ヒラタクワガタ欲しさに枯れ草を燃やしてボヤ騒ぎを起こし、コウモリを集めるために有線放送に細工をしたとか、今なら普通にニュース沙汰だ。
だが当時の俺たちは、怖がりながらもどこか英雄みたいに扱っていた。
そのノエ君が、ある時期からぱたりと森に入らなくなった。××ため池の水抜きだぞと煽っても乗らない。あいつなら学校を早退してでも行くはずなのに、曖昧に笑うだけだった。
銀のエンゼル三枚で、ようやく口を割った。
「……このあいだから、大城の森に行ってたんだよ」
大城の森はマムシの巣窟で、大人でも避ける場所だ。ノエ君は一人で奥まで入ったらしい。
「でっけー水たまりがあったんだよ。昨日まではなかった」
雨も降っていないのに、森の窪地に黒い水が溜まっていた。覗き込むと、水面の下で何かがうねっている。真っ黒なイモリが折り重なっていたという。見たこともない大きさで、腹は赤黒く毒々しかった。
ノエ君は迷わず両手で掴んだ。素手で。腹をひっくり返して模様を確かめ、しばらくうっとり眺めたらしい。
「ここ、オレのにしようと思ってさ」
その発想がすでにおかしいが、そこからが本番だった。森を出て、畑から盗んだ有刺鉄線を水たまりの上に被せ、枝と葉で隠した。素手で巻いたせいで両手は裂け、血が滲んだが気にしなかったという。
「オレのイモリだからな」
翌日、森へ戻ると異変があった。枝がずれている。鉄線の棘に布と血のようなものが絡んでいる。誰かが近づいた痕跡だ。
焦ったノエ君はまた素手で鉄線をどかした。水たまりはそこにあった。昨日と同じ、黒い群れが底で蠢いている。
その瞬間、耳をつんざく高周波が鳴った。
短波ラジオのような、言葉にならない音。
振り向くと、森の入口に人が立っていた。遠目には人間だが、妙に平たい。横向きになると厚みがほとんどない。ツルリとした表面に、服や顔が描かれているように見えた。
音はそいつから出ているはずなのに、口は閉じたままだ。
ノエ君が脇に退くと、薄いそれは水たまりの縁まで滑るように近づいた。そして音を止め、ゆっくり溶けはじめた。黒い水に吸い込まれていく。
イモリの群れが一斉に暴れた。
「オレのイモリに何するんだ」
ノエ君は叫んだ。すると、今度は背後から自分の声が返ってきた。
「オレのイモリに何するんだ」
まったく同じ抑揚で。だが少し高く、歪んでいた。
振り向くと、さっき溶けたはずの薄いそれが、伸び上がっていた。顔はノエ君のものに似ている。輪郭だけが甘く、印刷が滲んだような。
声はさらに重なった。
「オレの……オレの……」
ノエ君は逃げた。森を抜けるまで、後ろから自分の声が追ってきたという。
翌日、水たまりは消えていた。窪地は乾き、土が露出しているだけだった。
それ以来、ノエ君は森に入らなくなった。あんなのと競争したって勝てない、と言った。
その話を聞いたとき、俺たちは半信半疑だった。銀のエンゼルは二枚しか渡さなかった。どうせ作り話だろうと笑った。
だが、妙なことがある。
翌年、××ため池の水抜きでノエ君は溺れた。排水溝に詰まったという。助けに入った大人が言っていたらしい。
「最後まで何かと喋ってた」と。
水の中で、誰かと言い争うみたいに。
俺は今も、ときどき大城の森の前を通る。あの窪地は今も何もない。ただ、夕方になると耳鳴りみたいな高い音がすることがある。
そして、ふと口に出そうになる。
「オレの」
誰の声なのか、分からなくなる瞬間がある。
あのとき、俺はノエ君の話を買った。銀のエンゼルと引き換えに。
もしかすると、あの森で溶けた何かは、声を持ち帰らせるために現れたのかもしれない。
所有を叫んだ声だけを、薄く写し取るために。
[出典:914 名前: ロンパー ◆YdpC/gBCw. 03/12/15 15:31]