五月の節句の頃のことだ。
あの家には、仏壇のある部屋があった。昼でも薄暗く、線香の匂いがいつも畳に染みついている。その部屋にだけは、子供の俺も勝手に入らなかった。
その年、俺のために兜飾りが用意された。黒光りする鍬形、房のついた緒、そして脇に添えられた三十センチほどの小刀。鞘に収まった銀色の刃は、玩具とは違う冷たさを放っていた。
触るなと言われていた。だから触った。
誰も見ていない隙に、飾り台から刀を抜いた。鞘越しでもわかる重み。子供の手には少しだけ重いが、持てないほどではない。胸の奥が高鳴った。
公園に持って行った。
滑り台の下で、俺は刀を構えてみせた。近所の子が何人か集まっていた。中でも、よく懐いてくれていた年下の秀世が、少し離れてこちらを見ていた。
「こうやって持つんだ」
そう言って、鞘から半分だけ刃を抜いた。陽に当たった刃が一瞬光った。
その時、手の中で何かが滑った。
刃先が、まっすぐ伸びた。
秀世の顔に。
柔らかい感触があった。何かに触れたという確かな抵抗。すぐ後に、甲高い声が耳の奥を掻いた。
秀世が両手で顔を押さえた。指の隙間から赤いものが溢れた。地面に落ちた滴が、砂を濃く染めた。
俺は動けなかった。
秀世の口が開いた。何か言ったはずだが、音にならなかった。周囲がざわめいた。誰かが叫んだ。俺の腕は、まだ刀を握っていた。
次の瞬間、俺は走っていた。
家に飛び込み、母の名前を呼んだ。言葉にならない声だったと思う。母の顔色が変わり、外へ飛び出していった。
俺は仏壇の部屋に押し込まれた。
暗い。線香の匂い。畳に伏せると、目の奥が熱くなった。自分の手を見た。血はついていなかった。だが、指先がひりついていた。
しばらくして、部屋の空気が変わった。
背中に、光が当たった。
最初は、外の物音かと思った。だが、はっきりと明るい。畳の目が浮かび上がるほどに。
顔を上げると、障子の向こうが白んでいた。鳥の声が聞こえる。遠くでテレビの音がする。
廊下から母の声がした。
「何してるの。早く起きなさい」
俺は起き上がった。仏壇の部屋の襖は開いていて、台所の匂いが流れ込んでいた。味噌汁の湯気。いつもの朝だった。
母にしがみついた。
「秀世が」
そこまで言って、言葉が止まった。
母は怪訝な顔をした。
「秀世ちゃんが何?」
俺は昨日のことを話した。公園に行ったこと。刀を持ち出したこと。顔に当たったこと。
母は最後まで聞かず、眉を寄せた。
「昨日は一日家にいたでしょ」
そう言って、鍋をかき混ぜた。
「刀なんか触ってないし、公園にも行ってない」
その口調は叱るでもなく、本当に何を言っているのかわからない、というものだった。
俺は兜の前に立った。
刀はなかった。
飾り台の横は空いていた。布の跡だけが残っている。
胸の奥が冷えた。
幼稚園に行った。
秀世はいた。
いつも通り、園庭の端でしゃがみ込んでいた。ただ、右目に白いものが貼られていた。大きなガーゼのようなものだ。
俺を見ると、笑った。
昨日、あの瞬間に見た顔とは違う。泣きもせず、怒りもなく、ただ、普通に笑った。
その母親が、明るい声で言った。
「朝から目が腫れちゃってね。ばい菌入ったみたい」
俺は何も言えなかった。
秀世は近づいてきた。眼帯の下がどうなっているのか、見えなかった。だが、視線は確かに合っている気がした。
帰り道、公園に寄った。
ベンチの上に、刀があった。
鞘に収まったまま、昨日と同じ向きで置かれている。誰も触っていないようだった。
震える手で持ち上げた。
重い。
確かな重みがあった。
鞘を抜いた。
刃は欠けていない。赤いものもついていない。だが、刃の先に、砂が一粒だけ貼りついていた。
昨日、地面に落ちた血の近くで、確かに砂を踏んだ。
家に持ち帰ると、母が振り向いた。
「あんた、それどこにあったの」
声が低かった。
「公園」
母はしばらく刀を見つめた。
「飾っておいたのに。勝手に持ち出したの」
否定しようとしたが、声が出なかった。
その夜、秀世の顔を思い出した。
赤く濡れた頬。割れたように見えた目元。
だが、同時に、今朝の笑顔も重なった。
どちらが先なのか、わからない。
翌日、幼稚園で秀世が走った。眼帯は取れていた。目は開いていた。
傷はなかった。
ただ、俺の前に立つと、急に動きを止めた。
そして、小さな声で言った。
「けんちゃん」
それだけだった。
俺の名前を呼ぶ声が、昨日の公園で聞いた、あの途切れた声と同じ高さだった。
その瞬間、背中にあの光の感触が蘇った。
仏壇の部屋の匂いが、鼻の奥に広がった。
家に帰ると、兜の横に刀が戻っていた。
俺は触っていない。
母も何も言わない。
刀の位置だけが、わずかに傾いていた。
それ以来、五月が近づくと、あの部屋が明るくなる。
昼でもない時間に、ふっと。
背中に当たる、柔らかい光。
振り向いても、障子は閉まっている。
刀は、今も実家のどこかにあるはずだ。
あれが一度も外へ出ていないと、誰もが言う。
だが、俺の指先には、今でもあの刃の冷たさが残っている。
そして、秀世の右目を見ると、どうしても一瞬だけ、赤いものが滲んで見える。
誰も気づかない。
俺だけが、少し遅れているような気がする。
あの日の朝に、まだ辿り着けていない。
(了)