子供の頃に起きた、どうにも説明のつかない出来事がある。
思い出すたび、胸の奥がきゅっと締めつけられる。夢だったのかもしれないと何度も思い直すが、それにしては肌触りや音が、やけに生々しく焼きついている。
あれは、五月の節句の頃だった。
俺のために用意された立派な兜飾りと、三十センチほどの小刀。今思えば、家族が無事を願って選んでくれたものだ。それを、当時幼稚園児だった俺は、ただの“かっこいいおもちゃ”としか思っていなかった。
誰にも見つからぬよう、そっと飾り台から刀を抜き取った。鞘に収まった銀の刃、重みはあるが振り回すほどでもない。
近所の公園に持ち出して、自慢げに友達に見せびらかしていた。小さなヒーロー気取りで、ヒュンヒュンと空を斬る真似をして。
その日も、公園には見知った顔が揃っていた。
特に懐いてくれていた、少し年下の“秀世”。
ふわふわの髪と、虫の声みたいな高い声で、いつも俺のことを「けんちゃん」と呼んでついて来てた。
俺は得意になって、「こう構えると、こう切れるんだ」と、刀を構えて見せた。
刹那、何かがズレた。いや、手元が狂ったのか。
刀の先が、まるで吸い込まれるように秀世の顔に伸びた。
「うわっ」
生暖かい感触。目の奥が痒くなるような高音。
秀世の顔が、ぱっくりと割れたように見えた。
「け……ん……ちゃ……」
赤いものが彼の顔を覆った。
叫び声が上がったのか、俺が叫んだのか、それすら定かじゃない。
周囲がざわめく中、俺は公園を飛び出して、泥だらけの足で家へ駆け込んだ。
「母ちゃん!!しゅ、秀世が!!」
母は顔を強張らせ、すぐに外へ飛び出した。
その後ろを追うように、秀世の母も走って来た。
救急車のサイレンが遠く近づいて、公園には人だかり。
俺は誰にも声をかけられず、そのまま家へ連れ戻された。
連れて行かれたのは、仏壇のある暗い部屋。
あの部屋の匂いが今でも鼻の奥に残っている。線香の焦げたような甘さと、畳の湿ったような匂い。
ぽつんと置かれた座布団の上で、俺はただうつ伏せになって泣いていた。
取り返しのつかないことをした、と。
……その時だった。
部屋が明るくなった。
うつぶせの背中に、じんわりと陽が当たるのを感じた。
あれほど暗かった部屋が、ふわっと明るくなったのだ。
まるで朝日が差し込むような、柔らかくて淡い光だった。
目を開けると、障子の隙間から光が差していた。鳥の声がチュンチュンと聞こえる。
「……朝?」
時計は見ていない。だが、光と音は確かに朝のものだった。
その時、母の声が響いた。
「あんたそんなとこで何してんの!早く歯、磨きなさい!」
廊下の向こうから怒鳴り声。
顔を上げると、朝の忙しない我が家の風景が広がっていた。
台所から味噌汁の匂い、テレビから流れるニュースの音。
訳がわからず、俺はただ「ごめんなさい、ごめんなさい……」と泣きながら母にしがみついた。
「ごめんね、刀で、秀世ちゃんの目……」
母は一瞬眉をしかめたが、すぐに言った。
「何の話?秀世ちゃんどうかしたの?」
混乱しながら、俺は昨日の出来事を語った。
刀を持ち出して、公園で……目に刺してしまったこと。
母は最初は驚いていたが、次第に「そんなことしてないでしょ」と笑い始めた。
「昨日は家にいたじゃない。刀なんか持ってってないし、秀世ちゃんと遊んでないでしょ」
まるで、俺の記憶だけが歪んでいるような反応だった。
耐えられず、俺は兜の飾りのところへ走った。
あの小刀が、元の場所にあるかどうか……。
だが、そこに刀はなかった。
ただの兜だけがぽつんと鎮座していた。
あれは夢だったのか。
だが、手のひらにはあの刀の冷たい感触がまだ残っていた。
幼稚園に行くと、さらに混乱した。
秀世が、いつも通りいたのだ。
……ただし、右目に白い眼帯をして。
俺は息を呑んだ。
彼の母親と並んで立っていたので、意を決して謝ろうと近づいた。
「秀世ちゃん、ごめ……」
だが、その前に秀世の母が明るく言った。
「健太ちゃん、おはよう~。秀世、今朝からちょっと目が腫れちゃってね、ばい菌入ったみたいなの。いじらないように見張っててね」
俺は耳を疑った。
「え……昨日じゃなくて?」
「昨日?何の話?」
にこにこ笑う彼女の顔が、どうしても信用できなかった。
それでも、秀世はまったく怯える様子もなく、眼帯越しに笑いかけてくる。
血も、悲鳴も、なかったかのように。
帰宅してからも、気持ちは収まらなかった。
すると、母が唐突に聞いてきた。
「あんた、あの刀どこにやったの?遊び道具にしちゃダメって言ったでしょ」
俺は言葉を失った。
記憶の中で、俺は公園のベンチに刀を置き忘れていた。
駆け足で探しに行くと、そこに、あの刀がそのまま置かれていた。
赤くもなく、折れてもなく、ただ無言でそこにあった。
震えながら手に取ると、冷たく、確かに現実に存在していた。
すべてが元通りに見えたが、何かが違っていた。
あの時の秀世の表情が、今も夜中になると思い出される。
眼帯の向こうで、うっすら笑っていたような気がするのだ。
まるで、何かを思い出させまいとするような笑み。
何年経っても、あの日の“朝”のことは、俺の中で歪んだままだ。
果たして、あの出来事が“なかった”ことになったのか、それとも俺だけが、あの朝に巻き戻されたのか。
……誰にも、訊けないままだ。