052 師匠シリーズ「貯水池2」
「あれはヤバイ」
緊迫した声だった。
クラッチを踏んでバックするべきか刹那の迷いのあとで、師匠の足は全開でアクセルを踏み込んでいた。
背もたれに押し付けられるような加速に息を詰まらせ、心臓がしゃっくりあげる。
「どうしたんですか」
ようやくそれだけを言うと、助手席の窓から右手を挙げたままの黒い人影が、フェンスの向こうに立っている姿が一瞬見えて、そしてすぐに後方へ飛び去って行った。
顔も見えない相手と、なぜか目が合ったような気がした。
「雨に濡れて途方にくれてるヒトが、なんでフェンスの向こう側にいるんだ。人間じゃないんだよ!」
そんな言葉が師匠の口から迸った。
フェンスは高い。上部には鉄条網もついている。
そして貯水池に勝手に入り込めないように、唯一の出入り口は錠前に固く閉ざされている。
その向こう側に車に乗せて欲しい人がいるはずは、確かにないのだった。
そんな当然の思考を鈍らされ、僕一人ならそのまま確実に心の隙につけこまれていた。
ゾッとする思いで、呆然と前方を見るほかはなかった。
しかし、すぐに気を奮い立たせ後ろを振り返る。
リアウインドの向こうは暗い闇に閉ざされ、もう何も見えない。
そう思った瞬間に、なんとも言えない悪寒が背筋を走り、視線が後部座席のシートにゆっくりと落ちた。
表面が水で濡れてかすかに光って見える。
女が忽然と車中から消える濡れ女という怪談が頭をよぎり、つい最近読んだのは、あれは遠藤周作の話だったかと思考が巡りそうになったが、脊髄反射的に出た自分の叫び声に我に返る。
「乗せてなんかいないのに!」
僕の言葉に、師匠も首を捻って後部座席を一瞥する。
そして、ダッシュボードから雑巾を取り出したかと思うとこちらに放り、「拭いといて」と言った。
唖然としかけたがすぐに理性が反応し、座席を倒して、腫れ物に触るような手つきで後部座席のシートの水を拭き取ると、師匠の顔を見て頷くのを確認してから、手動でくるくるとウインドガラスを下げ、開く時間も惜しんで、わずかな隙間から外へとその雑巾を投げ捨てた。
まだ心臓がドキドキしている。
手についた少量の水分を、おぞましい物であるかのようにジーンズの腿に擦り付ける。
車はすでに対向車のある広い道に出ている。それでも嫌な感覚は消えない。
動悸が早くなったせいか、車のフロントガラスが曇りはじめた。
「これはちょっと凄いな」
師匠の口調はすでに冷静なものに戻っている。
しかし、その言葉の向かう先を見て、僕の心臓は再び悲鳴をあげる。
フロントガラス一面に、手の平の跡が浮かび上がって来たのである。
外側ではない。ワイパーが動いている。内側なのだ。
フロントガラスの内側を撫でると皮脂がつくのか、そのままでは何も見えないが、曇り始めたとたんにその形が浮かび上がって来ることがある。
まさにそれが今起こっている。
けれどやはり、僕らは乗せてなんかいないのだった。貯水池の幽霊なんかを。
師匠は自分の服の袖で正面のガラスを、一面の手の平の跡を拭きながら、「やっぱり捨てなきゃ良かったかな、雑巾」と言った。
カーステレオからは、稲川淳二の唾を飲み込むような声が聞こえてきた。
話を聞いてなんかいなかった僕にも、これから落とすための溜めだということが分かった。
やはり僕にはまだ笑えない。情けないとは思わなかった。怖いと思う心は、防衛本能そのものなのだから。
けれど一方で、その恐怖心に心地よさを覚える自分もいる。
師匠がチラッとこちらを見て、「オマエ、笑ってるぞ」と言う。
僕は「はい」とだけ答えた。
その夜はそれで解散した。
「ついてきてはないようだ」という師匠の言葉を信じたし、僕でもそのくらいは分かった。
3,四日経ったあと、師匠の呼び出しを受けた。夜の十時過ぎだ。
自転車で師匠のアパートへ向かい、ドアをノックする。
「開いてる」という声に、「知ってます」と言いながらドアを開ける。
師匠はなぜかドアに鍵を掛けない。
「防犯って言葉がありますよね。知ってますか」と溜息をつきながら部屋に上がる。
師匠は「防犯」と言って、壁に立てかけた金属バットを指さす。
なんか色々間違ってる人だが、いまさら指摘するまでもない。
「ここ家賃いくらでしたっけ」と問うと、「月一万円」という答えが返ってくる。
ただでさえ安いアパートで、この部屋で変死者が出たという曰くつきの物件であるために、さらに値引きされているのだそうだ。
「あの貯水池、やっぱり水死者が出てたよ」
本当に師匠は、こういうことを調べさせたら興信所並みだ。
言うには、あの貯水池で数年前に、若い母親が生まれたばかりの自分の赤ん坊と入水自殺したのだそうだ。
まず赤ん坊を水に沈めて殺しておいて、次に、自分の着衣の中にその赤ん坊と石を詰めて浮かび上がらないようにして、足のつかない場所まで行って溺れ死んだ、という話だ。
「じゃああれは、その母親の霊ですか」
「たぶんね」
では、何故迷い出てきたのだろう。
「死にたくなかったからじゃないか」
師匠は言う。
死にたくはないけれど、死ななくてはならないと思いつめていた。
その死にたくないという思いを押さえ込むための重しが、服に詰めた赤ん坊の死体であり石だった。
そしてそれは死んだのちも、この世に惑う足枷となっている……
「フェンスのウチかソトかっていうのは、そのアンヴィヴァレントな不安定さのせいだね。乗せてくれという右手と、乗ってはいけないというフェンスの内側という立ち位置」
「車に乗せてたら成仏してたわけですか」
「さあ。乗せてみたらわかるんじゃないかな……」
師匠の言葉は、どうしてこんなに蠱惑的なのか。僕はもう、今夜呼び出された目的を理解していた。
「じゃあ行こうか」
師匠が車のキーと金属バットを持って立ち上がる。
「いくらなんでもそれは、職質されたらまずいですよ」と言う僕に、師匠は「野球好きに見えないかな」と冗談めかし、
「鏡を見て言ってください」と返したが、そもそもそういう問題なのかという気がして、
「なんの役に立つんですか」と重ねるも、「防犯」というシンプルな答え。
もういいや、なんでも。
僕も覚悟を決めて師匠の車に乗り込んだ。今日は雨が降っていない。
「稲川淳二でも聞こう」
夜のドライブにはやはりこのBGMしかない。僕もすでに洗脳されつつあるらしい。
「あの手の平。フロントガラスの。あれ、2種類あったよね」
「え?」
「いや、気づいてないならいい」
師匠はあの異常な状況下でも、ガラスに浮かび上がった手の平の形を冷静に判別していたのだろうか。
「それって、どういう……」と問いかけた僕に、淳二トークのツボに入った師匠の笑い声がかぶさり、そのままなおざりにされてしまった。
車は前回と同じ道をひた走り、同じルートで貯水池へアプローチを始めた。
今夜は視界が良い。月も出ている。
同じ場所から減速をはじめ、師匠は「今日も出るかな」と言いながら、ハンドルをソロソロと操作する。
いた。
黒いフード。夜陰になお暗い、この世のものではない儚げな存在感。
その姿は、また今度もフェンスの内側にあった。そして右手を挙げている。
緊張が高まってくる。
車はその目前で停まり、エンジンをかけたまま師匠が降りる。慌てて僕もシートベルトを外す。
師匠がフェンスの格子越しに黒い影と向かい合っている。
手には金属バット。空には月。
「乗る?」
あまりに直截すぎて間が抜けて聞こえるが、師匠は師匠なりに緊張しているのが声の震えで分かる。
土の上になにか重いものが落ちる音がした。
052 師匠シリーズ「貯水池3」
フードの足もとに、滴る水に混じって黒い石が落下している。右手は挙げたままだ。
一度は遁走した霊を相手に、もう一度近づくだけならまだしも、車に乗るように語り掛けるなんて正気の沙汰ではない。
黒い影から石が落ちるのが止まった。
風が凪いだような空白の時間があった。
しかし次の瞬間、貯水池の水面がさざめいたかと思うと、なにか小さい黒いものが水の中から斜面に這い上がり、あっという間もなく、黒いフードの影の背後からその足元に絡み付いた。
息をのむ僕の目の前で、黒い影が斜面を引きずられるようにして貯水池の方に引っ張られていく。
挙げていた右手がそのまま、まるで助けを求めるようにこちらに突き出されている。
そして、音もなく影は暗い水の中に引きずり込まれていき、気がついた時には、微かな波紋が月の光に淡く残るだけだった。
静寂が訪れる。
僕らはフェンスに掻きつくように近づく。
しかし、目の前には何事もない、ただの夜の貯水池の静かな情景が、月明かりの下に広がっているだけだった。
僕の肺は急に小さくなってしまったようだ。息が、苦しい。
やがて師匠が口を開いた。
「フロントガラスの手の平は、大きい手と小さい手と二通りあった。
多分小さい方が、心中で先に殺された赤ん坊のものだろう。
母親の魂がこの世界を離れるのを、あの赤ん坊が留めているんだな。
死んだ後も、その重石としての役割を果たして」
師匠の言葉に、さっき見た小さい黒いものが、赤ん坊の姿かたちをしていたようなイメージが脳裏をよぎる。
では、あの二人は、この貯水池に永遠に縛られたままなのか。
その絶望的な想像に僕はしゃがみこんだ。俯いて地面だけを見ている。
師匠は何を考えているのだろう。
僕には分からない、心中という道を選んだ母親の心を想像しているのだろうか。
少し寒くなってきた。車からつけっぱなしの稲川淳二の声が微かに流れてくる。
師匠はそれが聞こえていたのか、ふいにクスッと笑うと、踵を返して「バッテリーがあがる。帰ろう」と言った。
師匠のフェンスを握っていた指が離れたのか、カシャンという音が響き、僕も我に返って、振り向きながら立ち上がった。
その次の瞬間。
目の前に壁があることに気がついた。
いびつな菱形をした金網の格子。それが僕の体にぶつかったのだ。
格子の向こうには、車のライトとそこへ歩いてく師匠の背中がある。
鳥肌が全身に立つ。心臓が早鐘のように鳴る。
いつの間に、僕は、フェンスの内側にいたのか。
「師匠ーっ!」
格子に指をかけながら思い切り叫んだ。
その瞬間、師匠は振り返り、目を剥いて僕を見た。
「いつの間に中に入った」
自然、声が大きい。
入ってなんかいない。どうやってこの鉄条網つきの、高いフェンスの内側に入れるというのか。
……けれど、確かにここはフェンスの内側なのだ。
ばちゃん。という音がして、背後を見た。
貯水池の黒々とした水面に、なにか手のようなものが突き出されている。
それが地面を掴み、ヌルヌル光る泥のようなものを纏いながら、這い上がろうとしていた。
「退いてろ」という声とともに、師匠の金属バットがフェンスを殴打する。
しかし、小さな火花が散っただけで、衝撃は波のように左右へ広がるだけだった。
べちゃんべちゃんという気持ちの悪い音が地面を叩き、小さくて黒いものが斜面をよじ登ってくる。
「出入り口は!」
「反対側です」
心臓が止まりそうな恐怖を味わいながらも、僕は正確に答えた。
「でも金属の鍵が掛かってます」
「フェンスの下を掘れないか」
「無理そうです」
師匠の舌打ちが聞こえた。
サッと走り去る気配。
僕はくだけそうになる足腰をかろうじて支えながら、貯水池に正対した。
斜面に泥の跡を残しながら、小さくて黒いものがこちらに這って来ている。
黒いフードの人影にはあったわずかなヒトの意思というものが、この小さい黒いものからは一切感じられない。
ただ怖いもの。危険なもの。嫌なもの。そして絶対に助からないもの。
水面から続く泥の筋が、まるで臍の緒のように伸びている。
僕は混乱する頭でなにをするべきか考えた。
母親の魂が救われる手助けをしようとしたからこうなったのか。
だったら、もうそんなことはしないということを伝えなければ。
そう思っても、その小さくて黒いものに向かうと、何故か声が掠れて出てこないのだった。
貯水池のまわりを走り回って逃げる?閉じられたフェンスの囲いの中でずっとそうしてるというのか。
僕は心が折れていくのを感じていた。
ジーンズのお尻が冷たい土の感触にふれ、ああ僕はもう座り込むしかないんだなと、現実から乖離したような思考がふわふわと漂った。
次の瞬間、轟音がした。
タイヤがアスファルトを引っ掻く音とともに、車のフロントがフェンスに突っ込んできた。
金属の焦げたような匂いがして、フェンスが風を孕んだように大きくひしゃげている。
たわんだ金網の破れ目から、何かを叫びながら師匠が手を伸ばした。
僕はその瞬間に立ち上がり、金属の鋭利な突起に服を引っ掛けながらも脱出することに成功する。
すぐに車はタイヤをすり減らしながら強引にバックで金網から抜け出し、僕を助手席に乗せて走り出した。
後ろは振り返らなかった。
そのわずかな間に色々なことを考えたと思う。でももう覚えていない。
そして僕は助かった。
師匠のアパートに戻ってきた時、鍵も掛けてないドアをあっさりと捻ると、なぜだか笑いが込み上げてきた。
このオカルト道の先達にとって、本当に怖いものは鍵など通用しない存在なのだと、今さらながら気づいたのだ。
ドアはドアでありさえすればよく、鍵は緊急時の自分の行動を制限してしまうだけなのだと。
「怖い目に遭わせたなぁ」
部屋の電気をつけながら、師匠はあまり済まなそうでもなく言う。
「ちびりました」
僕の言葉に師匠は、「男物の下着はないぞ」と嫌な顔をした。
「冗談ですよ」と返しながら、僕は車のことを謝った。フロントに傷がついてしまったはずだ。
それよりも、あの破壊したフェンス……
「なんとでもなる」
そんなことよりスパゲティの残りを食うかと言って、師匠はあと200グラムほど残った束をほぐし始めた。
「ダイエットじゃないんですか」と声を掛けると、「パワー不足を痛感した」と言って、後ろも見ずに壁に立てかけた金属バットを指さす。
「防犯なら、それよりもボディーガードを置きませんか」
僕なりに、真剣な意味を込めて言ったつもりだった。
それが伝わったのか、師匠は台所からきちんとこちらに振り向いて、「さっきの霊が背中にくっついて来てるのに、気づかないやつには無理だな」と言った。
僕は悲鳴を挙げて飛び上がった。
「ウソだウソ」
笑う師匠。
ウソと笑える神経が分からない。服の内側、背中一面に泥がついている。なぜ気づかなかったのか。
血の凍るような恐怖を感じながら、僕は背中に手をやって悶え続ける。
金属バットに足が当たってガランという音を立てる。
ウソだよウソ……
師匠の声が、ぐるぐると回る。
「このクソ女!」
確かそう叫んだはずだ。その時の僕は。
師匠の長い話が終わった。
大学一回生の冬の始めだった。
俺はオカルト道の師匠のアパートで、彼の思い出話を聞いていた。
「これが、その時のバットでついた傷。まったく、ただの泥にえらい醜態だった」
そう言って、壁の削れたような跡を指さす。
俺はまるでデジャヴのような感覚を覚えていた。
「まるで今の俺みたいですね」
師匠も一回生の頃は、そんな情けない青年だったのか。今からたった四,五年前の話なのに。
「情けなかったとも思わないけどなぁ。あの人みたいな化け物と一緒にされると、そう聞こえるかも知れないけど」
師匠の師匠、当時大学院生だったという女性は、加奈子さんといったそうだ。
彼女がいなくなったあと、師匠は空き部屋になった彼女の部屋に移り住んだらしい。
つまり今のこの部屋だ。
「でも、当時の家賃が1万円って、今より千円も高いじゃないですか」
値上げするならまだしも、値下げされるなんて、よっぽど酷い物件なのだろう。
「その加奈子さんって人は、今はどうしてるんです」
師匠は急に押し黙った。目が昏い光を帯びてくる。
そしてゆっくりと口を開き、「死んだ」と言った。
この部屋の家賃が下げられた理由が分かった気がした。
けれど、いつどこでどうして、ということを続けては聞けなかった。
何事にも順序というものがあり、師匠が師匠になるまでにしかるべき段階があったように、一人の人間がこの世からいなくなるのにも、相応しい因果があるのだろう。
その彼女の死は、師匠の秘密の根幹ともいうべき暗部であるという、確信にも似た予感があった。
ただその時、彼女はまだ、少しはにかみながら師匠が語る思い出話の中で、不思議な躍動感とともに息づいていたのだった。