これは、ある弁当屋でバイトをしていた大学生から聞いた話だ。
その店は、古びた木造の二階建てで、二階は「休憩室」とされていた。
しかし、誰もそこで休憩を取ろうとはせず、資材置き場として使われる程度。二階には大きな窓があったものの、昼間でも薄暗く、しっとりとした湿気が漂い、異様な気配が充満していたという。
バイト仲間の誰もがその二階に行くことを嫌がったが、一人だけ違った者がいた。
美大に通う自称霊感持ちの女子学生で、彼女だけが平然と二階でタバコを吸い、そこで過ごすことを楽しんでいるようにさえ見えた。
不思議な雰囲気をまとったその彼女の存在に、他のバイトたちは安堵と不安を抱きながら、重くない資材を頼んで彼女に二階の荷運びを任せることがしばしばあった。
ある日、その弁当屋で資材の在庫チェックが行われることになった。
社員の安達と本間、そしてこの話を語った彼と、その美大生、さらにバイトのチーフが参加する予定だったが、本間とチーフが電車事故で遅れてしまい、三人で始めることとなった。
資材チェックの準備をしていると、突如、二階から悲鳴が聞こえた。
急いで階段を駆け上がると、彼は突然頭上から水をかけられたような感触に襲われた。驚いて触れると、そこには大量の血。恐怖と困惑の中、二階へ上がると、目に飛び込んできたのは信じ難い光景だった。女子学生は壁に向かって叫び声を上げ、社員の安達はその場でへたりこみ、怯えた表情でただ震えていた。
彼女の指差す先を見て、彼はぞっとした。そこにはずっと壁だと思われていた場所が、実は引戸だったのだ。戸を開けると、そこには二畳ほどの小さな部屋が広がっていた。
室内は古い虫の死骸で覆われ、その中央には一か所だけ、奇妙に虫がない円形の跡が残っている。壁には土と混じった長い黒い髪が練り込まれているように見え、異様な圧迫感が全身を包んだ。
突如、遅れていたチーフがやってきた。彼の血まみれの姿を見たチーフはすぐに救急車を呼び、彼は病院に運ばれた。傷は驚くほど浅かったが、気持ちは恐怖でいっぱいだった。
病院で治療を受けている間に、本間が訪ねてきた。本間は病院の窓の外を見つめながらこう言った。「有給と見舞金を出すから、棚から物が落ちて怪我したことにしてくれ」。金銭の誘惑もあり、恐怖に耐えかねていた彼は、その申し出に従うことにした。
一方で、件の女子学生と社員の安達はその出来事以来異変をきたし、バイトを休むことが続いた。彼が復帰する頃には、女子学生は実家へ戻り、安達は体調を崩し、退職に追い込まれた。先輩からの話によれば、女子学生は「引戸の奥から頭がぐるぐる回る人形が出てきた」と繰り返し言っていたそうだ。
安達は、ショックで言葉を失い、内臓を悪くして長期入院してしまった。
その後、弁当屋は閉店し、跡地には新しいカフェが開業した。たまたまその駅を降り立ったときに気づいた彼が店を訪れると、驚いたことに先輩がその店の店長をしていたという。
「あのときのことがずっと気になってるんですよ」と、彼が尋ねると、先輩は引き出しから一通のはがきを見せた。それはあの女子学生からのもので、表面には異様なイラストが描かれていた。頭が横にひしゃげ、のっぺりとした顔に裂けたような口、細く異様に長い手足を持つ白いぬいぐるみが、踊るようにポーズを取っている絵だった。
「どうしても捨てられなくてさ……」
先輩は困った顔でそれをしまいこむと、彼の方を見て小さく首を振った。あの弁当屋で起きた一連の出来事はすべて隠され、噂にもしないようにしているらしかった。
その後も彼は先輩と連絡を取り合っていたが、先輩は数年後、両親の世話をするため田舎に戻ると言い、カフェを畳んだ。それ以来、先輩と連絡が取れなくなったのだという。連絡を試みても通じず、出した暑中見舞いも宛先不明で返送されてきた。
彼は今も、二階の奥に広がるあの部屋が何だったのか、その正体を知ることができないままでいる。だが、ひとつだけ確かに言えることがある。
――もう、あの場所には二度と近づくことはないだろう。
(了)