Windows95が発売されて、都会が浮かれていたころの話だ。
俺は小学四年生だった。場所は山形県の、地図を広げても指が滑ってしまうような山の奥だ。人は少なく、出来事はもっと少ない。季節だけが律儀に巡って、他は何も変わらない。時間の流れが古墳時代で止まっているのではないかと、本気で思える土地だった。
戸締りをする家はほとんどない。道を歩けば、顔を見ただけでどこの家の誰の孫か分かる。「おらが育てたかぼちゃ食ってけ」「今朝漬けた漬物だ」そんな声が当たり前に飛んでくる。牧歌的というより、閉じている。よそ者が入る隙がなく、出ていく理由も与えられない場所だった。
冬の終わり、雪の縁が薄茶色に汚れはじめた頃、沢で死体が見つかった。
最初に見つけたのは、隣の竹内のおじさんだった。早朝、わさびを採りに沢へ入ったら、上流で女が仰向けに倒れていたという。水は浅く、流れも弱い。滑って転んだにしては不自然だった。
死んでいたのは、八十をとうに過ぎた一人暮らしの婆ちゃんだった。名前は今も言わない。うば車を押しながら、毎日のように村の中を歩いていた人だ。朝に会うと、決まって「今日は気持ちがいいねえ」と言った。俺にもよく缶ジュースを買ってくれた。田舎特有の、境界の壊れたやさしさを、疑いなく差し出してくる人だった。
その婆ちゃんが、沢で冷たくなっていた。
首にはナイロンテープが食い込んでいたと、大人たちは小声で話していた。こんな場所で、人が人を殺す。テレビの中だけの出来事だと思っていた現実が、いきなり自分の教室の隣に置かれたような感覚だった。黒板の文字が平面に見えなくなり、世界がわずかに歪んだ。
村は一気に騒がしくなった。大人たちは集まっては囁き、誰がやった、通りすがりだ、あの独り身の男じゃないかと、根拠のない噂だけが走った。昼間は平静を装っていても、夜になると家々の灯りが早く消えた。
俺はその日から、夜に一人でトイレに行けなくなった。家の裏には竹藪があり、その奥に沢がある。布団に潜っても、枕元で婆ちゃんが「気持ちのいい朝だねえ」と囁く気がした。声は優しいのに、なぜか体が動かなかった。
捜査の中心になったのは、村に駐在していた巡査だった。少し猫背で、目だけが笑っていない人だ。見回りも、相談も、揉め事の仲裁も、祭りの警備も、全部その人がやっていた。村にとって、外と内をつなぐ唯一の窓だった。
俺の家にも巡査は来た。母に何かを聞いていた。俺は隣の部屋で、それを聞くともなく聞いていた。ふと、巡査の横顔を見た瞬間、胸の奥がざわついた。
既視感だった。
あの婆ちゃんが、俺をにらんでいた。以前、一度だけ交差点で見た顔だ。口角が不自然に引きつり、目だけが鋭く光っていた。鬼という言葉が、そのまま当てはまるような表情だった。その顔が、巡査の顔に重なって見えた。
理由は分からない。子どもの錯覚だと、大人なら片付けるだろう。それでも、その感覚は消えなかった。
三か月ほどして、突然、逮捕者が出た。
巡査だった。
新聞には、金銭トラブルと書かれていた。土地の件で口論になり、衝動的に近くにあったナイロンテープで首を絞め、遺体を沢に落とした。筋の通った話だった。大人たちは、それで一度、深く息を吐いた。
だが、話はそこで終わらなかった。
巡査は、村のあちこちから金を借りていた。家の建て替え、親の葬式、急な出費。理由はいくらでもあった。ギャンブル癖があるという噂も後から出てきたが、誰も強く責めなかった。巡査は必要な存在だったからだ。村のことを知り、村の側に立つ唯一の「外の人間」だった。
婆ちゃんは違った。
あの人は、村の土地を無償で貸していた。田んぼ、畑、山際の細い土地。名義は婆ちゃんのまま、使うのは村人だった。ところが事件の少し前から、県外の業者と接触していたという話が、ぽつぽつと出てきた。
売るつもりだったのか、脅しだったのか、誰にも分からない。
ただ、もしその話が進んでいたら、村の何割かは、今の生活を続けられなかった。それだけは確かだった。
婆ちゃんが死んで、土地の話は止まった。代わりに見つかったのは、古い書類だった。そこには「永久借地」という文言があった。つまり、婆ちゃんが死んでも、村人は土地を使い続けられる。
事件のあと、その話題を口にする人はいなくなった。最初から、何も知らなかったように。空気が、そう決めていた。
巡査が本当に一人でやったのかどうか、今では誰にも分からない。
俺は一度だけ、婆ちゃんの家に上がったことがある。奥に仏間があり、襖の模様が人の顔のように見えて怖かった。帰り際、婆ちゃんは俺の手を握って言った。
「誰にも言っちゃダメだよ」
何を、とは言わなかった。俺も聞かなかった。ただ、その手の冷たさと、声の調子だけが、妙に記憶に残っている。
十八で東京に出てから、実家には帰っていない。
帰れないのだ。あの村には、もう入れない。
夜になると、今でも夢に婆ちゃんが出てくる。沢の底に立って、にこにこしながら言う。
「今日は……気持ちのいい朝だねえ」
空は真っ黒だ。朝のはずなのに、何も見えない。
それでも、目が覚めると、胸の奥に残るのは安心ではない。
あの村が、今も何事もなかったように続いているという事実だけだ。
(了)