あれは高知に住んで五年目のある晩のことだった。
夜の空気は妙に澄んでいて、夏の匂いが残っているのに、指先だけが冷えた。友人と居酒屋で軽く飲み、十一時を少し回ったころに別れた。酔いは浅く、記憶ははっきりしている。
別れてすぐ、友人から電話がかかってきた。作業着を俺の車に忘れたという。声が少し荒れていた。
「なんか変なのいたんだよ」
それが第一声だった。
腕を振り回しながら奇声をあげ、同じ場所をぐるぐる走っていたという。ドブに落ちても起き上がって、また同じ軌道をなぞる。酔っ払いとも喧嘩とも違う動きだったらしい。
半信半疑のまま、俺は家の前で煙草を吸いながら待った。住宅街の脇道は静まり返り、街灯の下だけが白い。やがてヘッドライトが角を曲がり、友人の車が止まった。
彼は笑っていた。だが目が定まらない。
「さっきの路地、まだいるかもしれん」
俺たちは確かめに行った。問題の路地には誰もいなかった。ドブを照らすと、水の底に丸太のような影があった。二人同時に飛び退いたが、よく見るとただの木片だった。
笑った。だが笑いは続かなかった。
空き地で車を回そうとした瞬間、助手席の友人が叫んだ。
「後ろ!」
ミラーに、人影が映っていた。腕を大きく振り、こちらに向かって走ってくる。声は聞こえないのに、叫んでいるのが分かる。
俺はアクセルを踏み込んだ。赤信号を避け、脇道へ逸れ、また同じ空き地に滑り込む。エンジンを切ると、外の音が一気に消えた。
暗闇の中で、男が立っていた。
肩で息をしている。だが追いつくはずの距離ではない。さっきミラーに映った位置から、この空き地までは一直線では来られない。
男はきょろきょろと周囲を見回し、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。目が合った気がした。窓越しなのに、焦点が合う。
そして車の後ろに立った。
何をするのかと固まっていると、男はそのまま立ち、しばらく動かなかった。背中越しに、こちらを見ているのが分かる。
やがて、ゴニョゴニョと何かを呟きながら、窓に顔を近づけた。吐息でガラスが白く曇る。指が動く。何かを書いている。
男はそのまま走り去った。
すぐには動けなかった。時間の感覚が抜け落ち、ようやく外に出たとき、後部座席の窓に文字が残っていた。
俺の車のナンバーの数字の横に、漢字が一つ。
『覚』
友人が言った。
「覚えるってことか……」
だが、俺は違和感を覚えた。
男は、ナンバーを見ていない。ずっと窓の内側を見ていた。
その夜、友人に送ってもらい、部屋に戻った。すべての窓を閉め、カーテンを引いた。曇ったガラスに、無意識に指を当てた瞬間、背中が凍った。
指先に触れた跡が、勝手に一本の線を引いた気がした。
慌てて手を離すと、曇りの上に、うっすらと文字が浮いていた。
『覚』
俺は書いていない。
次の瞬間、スマホが鳴った。友人からだった。
「お前、さっきの字、なんて読んだ?」
「覚だろ」
沈黙が落ちた。
「俺には、“起”に見えた」
通話が切れた。
それからだ。夜道を歩くと、視界の端で腕が振られる気がする。信号待ちの車列の向こう、コンビニのガラス、マンションの非常階段。どこにでも同じ動きがある。
誰かが同じ場所をぐるぐる回っている。
俺は五年ここに住んでいるはずだ。
だが最近、道を曲がるたびに思う。
ここは、前からこうだったか。
曇った窓を見るたびに、無意識に指が動くのを止められない。
文字が先にあるのか、俺がなぞっているのか、分からない。
あの夜、覚えられたのは、俺だったのかもしれない。
(了)