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短編 r+ ヒトコワ・ほんとに怖いのは人間

『覚』rw+6,181-0217

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あれは高知に住んで五年目のある晩のことだった。

夜の空気は妙に澄んでいて、夏の匂いが残っているのに、指先だけが冷えた。友人と居酒屋で軽く飲み、十一時を少し回ったころに別れた。酔いは浅く、記憶ははっきりしている。

別れてすぐ、友人から電話がかかってきた。作業着を俺の車に忘れたという。声が少し荒れていた。

「なんか変なのいたんだよ」

それが第一声だった。

腕を振り回しながら奇声をあげ、同じ場所をぐるぐる走っていたという。ドブに落ちても起き上がって、また同じ軌道をなぞる。酔っ払いとも喧嘩とも違う動きだったらしい。

半信半疑のまま、俺は家の前で煙草を吸いながら待った。住宅街の脇道は静まり返り、街灯の下だけが白い。やがてヘッドライトが角を曲がり、友人の車が止まった。

彼は笑っていた。だが目が定まらない。

「さっきの路地、まだいるかもしれん」

俺たちは確かめに行った。問題の路地には誰もいなかった。ドブを照らすと、水の底に丸太のような影があった。二人同時に飛び退いたが、よく見るとただの木片だった。

笑った。だが笑いは続かなかった。

空き地で車を回そうとした瞬間、助手席の友人が叫んだ。

「後ろ!」

ミラーに、人影が映っていた。腕を大きく振り、こちらに向かって走ってくる。声は聞こえないのに、叫んでいるのが分かる。

俺はアクセルを踏み込んだ。赤信号を避け、脇道へ逸れ、また同じ空き地に滑り込む。エンジンを切ると、外の音が一気に消えた。

暗闇の中で、男が立っていた。

肩で息をしている。だが追いつくはずの距離ではない。さっきミラーに映った位置から、この空き地までは一直線では来られない。

男はきょろきょろと周囲を見回し、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。目が合った気がした。窓越しなのに、焦点が合う。

そして車の後ろに立った。

何をするのかと固まっていると、男はそのまま立ち、しばらく動かなかった。背中越しに、こちらを見ているのが分かる。

やがて、ゴニョゴニョと何かを呟きながら、窓に顔を近づけた。吐息でガラスが白く曇る。指が動く。何かを書いている。

男はそのまま走り去った。

すぐには動けなかった。時間の感覚が抜け落ち、ようやく外に出たとき、後部座席の窓に文字が残っていた。

俺の車のナンバーの数字の横に、漢字が一つ。

『覚』

友人が言った。

「覚えるってことか……」

だが、俺は違和感を覚えた。

男は、ナンバーを見ていない。ずっと窓の内側を見ていた。

その夜、友人に送ってもらい、部屋に戻った。すべての窓を閉め、カーテンを引いた。曇ったガラスに、無意識に指を当てた瞬間、背中が凍った。

指先に触れた跡が、勝手に一本の線を引いた気がした。

慌てて手を離すと、曇りの上に、うっすらと文字が浮いていた。

『覚』

俺は書いていない。

次の瞬間、スマホが鳴った。友人からだった。

「お前、さっきの字、なんて読んだ?」

「覚だろ」

沈黙が落ちた。

「俺には、“起”に見えた」

通話が切れた。

それからだ。夜道を歩くと、視界の端で腕が振られる気がする。信号待ちの車列の向こう、コンビニのガラス、マンションの非常階段。どこにでも同じ動きがある。

誰かが同じ場所をぐるぐる回っている。

俺は五年ここに住んでいるはずだ。

だが最近、道を曲がるたびに思う。

ここは、前からこうだったか。

曇った窓を見るたびに、無意識に指が動くのを止められない。

文字が先にあるのか、俺がなぞっているのか、分からない。

あの夜、覚えられたのは、俺だったのかもしれない。

(了)

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