「常識」が発見されたのは、二〇四一年だった。
それまで常識は、測れないものとされていた。国が違えば変わり、時代が違えば変わる。同じ家で育った兄弟でさえ、「そんなの常識だろう」と言い合うことがある。常識とは結局、個人や集団が勝手に引いた境界線にすぎない。少なくとも、人類はそう考えていた。
脳科学者の有馬博士が、人間が何かを「当然だ」と判断するとき、脳の特定部位に特徴的な活動が現れることを発見した。実験は各国で再現され、対象者は十万人、百万人、一億人へと増えた。「人を殺してはいけない」「盗んではいけない」「約束は守るべきだ」といった問いには、ほぼ同じ反応が現れた。
研究者たちは、さらに細かな問いを加えた。
三十歳を過ぎたら結婚を考えるべきか。会議で上司より先に発言してよいか。葬式で笑ってよいか。親の老後を子どもが見るべきか。
回答そのものは地域や世代によってばらついた。だが、文化、教育、所得、年齢などの差を補正すると、人間がある判断をどれほど「当然」と感じるかには、一定の値が現れた。
それは「常識定数」と名づけられた。
科学雑誌が認め、大学が教え、国際機関が指標として採用した。常識は、誰かが押しつけるものではなくなった。
測れば分かるものになった。
最初に変わったのは裁判だった。
「悪いことだとは思わなかった」と主張する被告に対し、裁判官は測定結果を示した。
「常識値九六・二。この行為が許されないことは、一般的な成人なら理解できたと認められます」
学校では国語や数学と並んで「常識」が試験科目になった。
《友人三人が、あなたの知らないところで食事をしていた。あなたはどう感じるべきか》
選択肢は四つあり、正解は一つだった。間違えた子どもには、教師が丁寧に説明した。
「感じ方にも正解があるの。今は科学で分かるからね」
企業は採用試験に常識検査を加えた。銀行は融資の審査に使い、保険会社は契約条件に組み込んだ。結婚相談所では、収入や年齢と一緒に常識値が表示された。
基準から大きく外れた人間は、社会生活に困難を抱えるようになった。
政府は、それを差別ではなく医学的配慮だと説明した。一般人と同じ判断を要求すること自体が、当事者への負担になる。適切な治療によって社会生活への復帰を支援する必要がある。
そのための施設が各地に造られた。
佐伯は、その一つで医師をしていた。
治療は難しくなかった。患者に映像を見せ、質問する。
「この場面で、普通の人はどう感じますか」
回答が基準を外れると、薬剤と微弱電流で神経活動を調整した。ほとんどの患者は二週間ほどで退院した。佐伯自身、この治療に疑問を持ったことはなかった。
ある日、十一歳の少年が入院してきた。学校の常識試験で、異常に低い点数を取ったという。
佐伯はいつもの質問から始めた。
「困っている人がいたら、助けるべきだと思う?」
少年は少し考えた。
「場合によると思います」
「どうして?」
「助けたせいで、もっと困ることもあるから」
端末に赤い表示が出た。
《逸脱》
佐伯は次の質問を出した。
「親の言うことは聞くべきだと思う?」
「親が間違っていたら、聞かなくてもいいと思います」
《逸脱》
「大勢の人が正しいと言っていることは?」
少年は今度はすぐに答えた。
「大勢が間違っていることもあります」
《重大逸脱》
佐伯は端末から目を上げた。
「君は、どうして何でも疑うんだ」
少年のほうが戸惑った顔をした。
「先生は疑わないんですか」
佐伯は返事をしなかった。
「科学って、疑うものじゃないんですか」
その夜、佐伯は施設に残り、常識定数に関する資料を調べた。現在の治療指針から始め、制定当初の基準書、国際委員会の報告書、有馬博士たちの最初期の論文まで遡った。
そこで、教科書では見たことのない一文を見つけた。
《本研究が測定しているのは、多数の人間が共有する判断傾向であり、その判断が正しいことを示すものではない》
佐伯は画面をスクロールし、もう一度その一文へ戻った。
特別なことは何も書かれていなかった。科学者なら当然つけるはずの留保だった。
翌朝、佐伯は上司に論文を見せた。
「この記述、現在の基準書にはありません」
上司は一度だけ画面を見て、すぐに佐伯を見た。
「昔の研究だよ」
「ですが、測定しているものの定義は変わっていません」
「佐伯先生」
「多数がそう判断することと、それが正しいことは別です」
上司はしばらく黙っていた。そして壁際の測定器を指した。
「測れば分かる」
佐伯の頭に電極が取りつけられた。
正面の画面に質問が表示された。
《常識は、科学的に正しい》
佐伯は「いいえ」を押した。
機械は数秒間、脳活動を解析した。
《重大逸脱》
三週間後、佐伯は職場に復帰した。
少年はまだ入院していた。治療室に入ると、少年は佐伯を見上げた。
「先生」
「どうした」
「科学って、疑うものですよね」
佐伯は少年の前に端末を置き、測定器の電源を入れた。
「何を言っているんだ。科学的に証明されたことを疑うのは、非科学的だよ」
画面に緑色の文字が浮かんだ。
《正常》
少年はその表示をしばらく見ていた。
「じゃあ先生」
佐伯は次の質問を呼び出そうとした。
「最初にそれを疑った人は、どうやって科学を始めたんですか」
佐伯の指が止まった。
少年が何を尋ねているのか、分からなかった。
(了)