祖父はよく言っていた。この世でいちばん恐ろしいのは、祖母だと。
私が生まれる前の話だ。祖母は山へ入るのが日課だった。春先はタケノコ、秋は茸、冬前には薪の様子を見に行く。猟師の嫁というより、山に属する人間のようだったと祖父は言う。
その日も祖母は朝から山に入り、背の籠がいっぱいになるまでタケノコを掘った。帰ろうとしたとき、気づけば霧が出ていた。山では珍しくない。だが、どれだけ歩いても集落の境に出ない。祖母はそこで初めて足を止めた。
化かされたな、と祖母は思ったらしい。狐か、ムジナか、それとも別のものか。祖父の話では、祖母はその場で籠を下ろし、鍬を握り直したという。そして霧に向かって怒鳴った。
どこのどいつか知らねえが、ずいぶん舐めた真似をするじゃねえか。おらを誰だと思っとる。ここらで名の通った猟師の嫁だ。獣ごときに負けたとあっちゃ、名が廃る。
そう言って鍬を振り回した。霧は、風に散るように引いたという。道は突然、当たり前の場所に戻っていた。祖母は何事もなかったように歩き、日暮れ前には家に帰った。
祖父はこの話をするとき、必ず一拍置いた。霧が引いた理由がわからない、と。獣が怯えたのかもしれないし、もともと霧が切れる時間だっただけかもしれない。ただ、祖母自身は「追い払った」と一度も言わなかった。ただ、帰ってきただけだ。
また別の日、祖母の夢枕に立つ者があった。数日前に亡くなった近所の女だった。茶飲み友達で、畑の話や孫の話をよくしていた相手だという。
おう、なにしとる。おめえ、もう死んだろうが。いつまでそんなところにおる。さっさと川を渡らにゃならんだろ。
祖母はそう言ったが、その女は黙って立っていた。泣きもしなければ、助けを求める様子もない。ただ、そこに立っていた。
祖母は顔をしかめ、声を荒げた。
いい加減にせえ。あんまりぐずぐずしとると、ただじゃ済まさん。こうして、こうして、こうしてやるでな。
祖父は、その「こうして」の身振りを今でも覚えていると言った。拳を握り、振り下ろし、踏み込む動き。人に向けるには、あまりに迷いがなかった。
女は、その瞬間に消えた。
それきり、夢に立つことはなかった。祖母はそれを誰かに語ることもなく、いつも通り畑に出て、山に入り、夕方には飯を作った。
祖父は言っていた。祖母には、怖いものがなかったのだと。幽霊も、獣も、神様も、同じ場所に立たされていたのだと。
小さい頃、祖父は酒を飲むと、さらに古い話をした。祖母がまだ娘だった頃、村で「神様のところへ嫁に行け」と言われたことがあったらしい。理由は誰もはっきり言わなかった。ただ、そう決まったのだと。
祖母は社に連れて行かれ、そこで大騒ぎした。聞くに堪えない言葉で怒鳴り、供え物を蹴り、二度と来るかと吐き捨てたという。その日のうちに話は立ち消えた。
代わりに、祖父のところへ嫁に来た。
ありがたいような、恐ろしいような気持ちだったと祖父は言った。祝言の日、祖母は一度も俯かなかった。神様より怖い嫁をもらったのだと、笑って言っていた。
祖母は、死ぬときも同じだったという。床に伏しても、弱音を吐かなかった。怒り、笑い、文句を言い、最後まで誰かを叱っていた。ある瞬間、急に黙り、そしてそのまま逝った。
祖父は、別れの言葉もなかったと言った。
それきりだ。祖母は一度も化けて出なかった。夢にも、気配にも、影にもならなかった。
祖父はときどき、ぽつりと漏らした。あれほどの人間が、死んで何も残さないはずがない、と。怖いものがなかった人間は、死んだあと、どこへ行くのか、と。
数年後、祖父も死んだ。私はまだ幼く、葬式の記憶も曖昧だ。ただ、不思議に思ったことだけは覚えている。祖父が死んだあとも、誰も夢枕に立たなかった。霧も出なければ、物音もない。語られる話も増えなかった。
山は今もある。霧も出る。だが、祖父の家系では、誰も山で化かされた話をしなくなった。
私が山に入るとき、祖父の言葉を思い出す。この世でいちばん恐ろしいのは、祖母だと。
なぜだか、背中を見られている気がする。振り返っても、誰もいない。だが、霧が出ると、足を止めてしまう。
怒鳴る言葉を、私は知らない。
[出典:怖い話&不思議な話の投稿掲示板/投稿者「ほしな ◆YZpuwgGc」 2019/03/16[st_af name=""]]