桐谷は物流センターの設備管理を担当している。
首都圏に点在する三つの巨大倉庫を巡回し、空調、照明、防犯設備の保守を一人で請け負う契約社員だった。夜間作業が多いが、現場に人がいない分、仕事は静かで合理的だ。その静けさを、彼は好んでいた。
去年の夏、横浜の倉庫から緊急メンテナンスの連絡が入った。地下三階の冷蔵区画で温度センサーが断続的に異常を出しているという。昼間は稼働が止められないため、点検は深夜二時からと決まった。
現地で夜間管理人から鍵を受け取り、エレベーターで地下へ降りた。地下三階は食品メーカーの冷凍在庫を収める区画で、普段はフォークリフトの音と冷却機の低い唸りが絶えないはずだった。
扉が開いた瞬間、冷気がまとわりついた。照明は自動点灯のはずだが、通路の半分ほどしか灯らない。残りは黒く沈み、天井の高さも奥行きも判然としなかった。桐谷は懐中電灯を点け、点検表を確認しながら奥へ進んだ。
機械音がなかった。冷却装置も換気も、止まっているように静かだった。足音だけが不自然に反響する。温度計の表示は正常値を示している。それでも空気は重く、冷たさが皮膚ではなく骨に触れてくるようだった。
目的のセンサーボックスの手前で、彼は歩みを止めた。
通路の先に、パレットが並んでいた。白い布がかけられ、形の揃わない何かをまとめて覆っている。識別タグもバーコードも見当たらない。冷凍在庫の扱いとしてはあり得なかった。
近づくと、床に黒い染みが広がっているのが見えた。液体はすでに乾きかけている。腐敗臭はなく、代わりに金属のような匂いが鼻に残った。血液の匂いにも似ていたが、確信できるほど強くはなかった。
桐谷は視線を切り、作業に集中しようとした。センサーの配線、接点、制御盤。どこにも異常は見当たらない。記録上も問題はなく、誤作動の原因は不明だった。
作業を終え、通路を引き返そうとした時、背後で布が擦れる音がした。
振り向くと、パレットは先ほどと同じ位置にあった。ただ一箇所、布の端がずれている。懐中電灯の光がそこを照らし、白い何かが覗いていた。
指だった。
人の手に似ているが、長さが揃っていない。関節の数が合わず、皮膚の境目も曖昧だった。爪はなく、先端は丸く溶けたように続いている。完成していない部品を無理に並べたような形だった。
その瞬間、エレベーターの到着音が響いた。
誰かが降りてきた。そう思った。管理人か、別の作業員か。だが次に聞こえた足音は、人のものとは思えなかった。歩幅が一定で、複数あるはずなのに重なり合って聞こえる。遅れも乱れもなく、ただ距離だけが縮まってくる。
通路の奥、照明の届かない場所に、何かが立っていた。
人の形をしているようで、厚みがない。影が立ち上がったような輪郭で、顔の位置に凹凸らしきものがあるだけだった。描きかけの図面が、そのまま立体になったような存在だった。
それが腕を伸ばした。手には細長い器具のようなものが握られている。管にも見え、工具にも見える。用途が思い浮かばない形だった。
言葉は聞こえなかった。だが頭の中に、作業指示の断片のような感覚が流れ込んできた。意味は分からない。ただ、次に何をすべきかだけが、当然の手順として押し付けられてくる。
桐谷は動けなかった。逃げようという判断が浮かぶ前に、体が現場の一部になったように固定されていた。
影のようなものは一つとも複数とも判別できなくなり、通路の闇に溶け合っていった。
その時、懐中電灯が消えた。
完全な暗闇の中で、冷気が首筋を撫でた。何かが触れた感触だけが残り、次の瞬間、意識が途切れた。
気づいた時、桐谷は地上の休憩室に横たわっていた。夜間管理人が肩を揺さぶり、名前を呼んでいる。エレベーター前で倒れていたという。時刻は午前五時を回っていた。
管理人の話では、地下三階にはその夜、誰も降りていない。監視カメラの記録も確認したが、エレベーターは桐谷一人分しか動いていなかった。ただ、地下階の映像は途中から数分間、映像と音声がずれていたという。
温度センサーの異常は、その後も断続的に続いている。
桐谷は二度とその倉庫の仕事を引き受けなかった。
今でも、冷たい場所に入ると首筋に鈍い痛みが走るという。
自宅のクローゼットには、いつからか白い布に包まれた細長い物が置かれている。どの現場の備品にも該当しない。
それが何かを確かめたことはない。
(了)